政治思想学会(於 名古屋大学)に呼んでいただき、「政治思想研究と隣接諸学」セッションに登壇してきた。相変わらず多数決の話をするのだが、コンドルセとルソーの話を軸に据えた。研究大会(政治思想学会)
セッションの構成は次のようなものだ。
「シンポジウムⅢ 政治思想研究と隣接諸学司会:野口雅弘(立命館大学)」
- 坂井豊貴(慶応義塾大学)「経済学の視点から多数決を考える」
- 谷口功一(首都大学東京)「法哲学の視点から共同体を考える」
- 松沢裕作(慶応義塾大学)「統治の思想と実務:明治地方自治体制研究を一例に」
討論:山岡龍一(放送大学)
討論者の山岡先生は、三つの他分野の研究者に主に「方法」について質問するという離れ業(tour de force)をやっておられた。いただいた質問に対する私の返答を、以下にまとめておく。質問文はあくまで私が短くまとめたもので、もとの文章のニュアンスが変わっているかもしれないし、叡知の度合いが下がっていることは間違いない。また、フロアからの質問も混ぜてある。ここでの目的は、あくまで私の「自分の学問への本音」をいくつか、ざっくりと記述することである。
Q.アリストテレスは、学問の方法はその対象に応じて変わるべきだと主張していたが、それについてどう考えるか。経済学の方法は、もはや対象として我々が普通「経済」と呼ぶものを超えているように見える。
A.結論からいうと、学問の方法が対象に応じて変わるのは当然ではないか。経済学はなぜ数理化できたか?(したか)
- 扱う対象に数字が多いから(例: 価格、量、売上、費用)。
- 経済学で確立した数理的方法は、ときに新たな学問分野を生みだしたり(例: Social Choice, Positive Political Theory)、ときに他分野でも活用できる(例: マーケティングに計量経済学を活用、オークション理論でGoogleが大儲け)。
扱う対象に数字が少ない学問分野(例: 政治思想、歴史)は、数理的方法は向いていないだろう。
- 数理的方法の特徴は、定義・定理・証明の流れがあること。定義できないものは扱えない。定義という作業により対象を明確化するのは良いことだが、それに向いていない重要概念は多々ある。たとえば一般意志。
- 解釈する、文脈を与えるといった作業も、もちろん数理的方法ではできない。そもそも数理的方法で得た結果は、解釈したり、文脈を与えたりせねば無意味。
Q.選好を所与のものとして扱うことをどう考えるか。
A.私は「人々の意思(選好)をうまく集約するルール」の設計を研究しているが、虚しく感じるときもある。というのは、邪悪な人々の意思をうまく集約すると、邪悪な結果が出るから。集約ルールは徹頭徹尾、手続きである。結果の内容が善きものであることを全く保証しない。
- リンカーンは他候補のあいだの「票の割れ」のおかげで多数決の大統領選で勝てた。人々の意思をうまく集約するボルダルールなら負けていた。
- 私自身は、ルワンダ大虐殺をとても気にしている(大虐殺が投票で決まったわけではないが、「多数派の専制」の最悪ケースであろう)。なぜツチ族の隣人を虐殺したフツ族は、「フツ族としての自分」のアイデンティティに強くとらわれたのか。「隣人としての自分」でもよかったではないか。なんと不自由なことか。これはアマルティア・センの『アイデンティティと暴力』な話だ。
- 作者: アマルティア・セン,大門 毅,東郷えりか
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Q.政治理論には、熟議民主主義論のように、選好の変容、もしくはより善い変容を目指すという志向性がある場合があるが、それをどう考えるか。
A.その志向性に共鳴する。よく経済学者は「制度を憎んで人を憎まず」というが、私はきっちり人も憎む。制度にできることは限られており、人間にも期待をかけないわけにはいかない。
Q.多数決が「票の割れ」の影響で多数派すら尊重しないダメな投票方式であることは分かった。ではそれ以外の投票方式、例えばボルダルールを使って、結局、少数派は守られるのか。
A.守られない。人々の多くが邪悪なら、多数決だろうがボルダルールだろうが、投票結果は邪悪なものになる。投票という手法じたいには少数派を守る機能は備わっていない。そもそも投票で決められることを立憲主義的に制約したほうがよい。
Q.コンドルセの真意をつかむことは、学問にとって、本質的に有意味なのか。
A.有意味である。社会的選択理論の始祖であるコンドルセの真意は、ルソーの『社会契約論』を制度として具体化すること。これは1980年代に明らかになった。真意が分かると、それまで不明瞭だった文章や数式が解釈できるようになる。
仏像だけ眺めてもしょうがない。そこに込められた魂を知覚したい。込められた魂を知覚すると、仏像の見えかたが変わる。私の場合はコンドルセを通じて、社会的選択理論の見えかたがずいぶん変わった。ただしこの場でこのように申し上げるのは、私にとっては一種の信仰告白(confession)である。
行き帰りの新幹線のなかでは、企画者の宇野重規さんからご恵送いただいた『政治哲学的考察』の第5章「代表制の政治思想史」を読んだ。これを読んではじめて私は、「代表」の概念が、その情念性が、それなりに分かったような気になった。それにしても、論文を(整理して)まとめて、こうも立派な一冊の本になる、というのはすごいことだ。