コンドルセ考案の議員選出法

 すまないが最初に4/29の日誌を書く。今日は休日で、妻の友人が子供連れで遊びに来てくれた。家庭でお役御免となった私は、多摩川沿いをサイクリングすることにした。サイクリング自体を目的とする初めてのライドで、多摩川大橋あたりから立川近辺まで、多摩川沿いを往復80kmほど走った。休日を自分一人のために使えることは滅多にない。ぜひ妻の友人は毎週子供連れでうちに遊びに来てほしい。

  • 行きの40kmはひたすら楽しかった。冒険みたいだ。
  • 途中で昼ご飯を食べようと店を探したとき、鮨屋とマックしか周りになかった。カロリーと炭酸飲料が欲しいのでマックに入った。
  • 60kmを過ぎたあたりから、少しお尻が痛くなった。レーパンを履いた方がよいのだろう。レーパンはちょっと抵抗あるが、快適なのだろうなあ。
  • 「多摩川沿い」と言っても、全ての沿いに道が整備されているわけではないし、未舗装路もある。遠回りしているうちに、何度か道を間違えた(これはこれで楽しいのだが)。しかし聖蹟桜ヶ丘あたりで道に迷ったとき、けっこうな坂道を登り、足がむちゃくちゃくたびれて、そのときは心が無感情化した。
  • たぶん60kmくらいから疲れはじめた。聖蹟桜ヶ丘でのダメージが出てきた。集中力が下がると、きっちり左側を走るべきところが、少し右寄りになって、よくない。
  • そこから20kmくらい、真っ直ぐ走った。なぜ自分はこんなことをしているのかと思うが、そもそもサイクリング自体が目的である。いったい自分は自分の行為を選択しているのか・自由意志はあるのか、などと考え始めるのは疲労した証拠だ。
  • ふと見付けた銭湯に入った。実は今日の目標は「長距離サイクリングして、ふと見付けた銭湯に、ぶらっと入る」だったので、完璧である。下調べはしていないし、スマホも持ってないが、これを期待して着替えとタオルを持参していた。ただしその銭湯にコーヒー牛乳を置いてなかったのが残念だった。お湯は気持ちいいが、体力は回復せず。そこから自宅まで2km、歩道をのんびり帰った。

 思ったより、ものすごくクタクタになった。初心者だからか、ロードじゃなくクロスバイクだからか、普通の服装・靴だからだろうか(多分どれもだろう)。しかしこれだけクタクタになってもケガがないとは、つくづく自転車は体にやさしいなあと思う。とりあえずはいまの自転車で出来ることを全部やっていこうと思う。今度は海に行きたい。潮風で髪をばさばさにして、沿岸をゆっくりと走って、移動販売車で売ってるアイスクリームを食べたい。

 やっと本題。このブログは、私の雑記と学術的な内容が、抱き合わせ販売のようにセットで書かれています。どちらがメインなのかよく分からないが、後者であるべきだろう。

 以下に、『多数決を疑う』のために書いたものの、扱う内容があまりにマイナーなため、最終的に載せなかった節「コンドルセ考案の議員選出法」を貼ります。関心を持たれた専門家は、気が向いたら公理的分析をしてみてください。Society for Social Choice and Welfareにいる、その筋の玄人には受ける話だと思います。入手しやすい参考文献はこれ:

Condorcet: Foundations of Social Choice and Political Theory

Condorcet: Foundations of Social Choice and Political Theory

 

  

コンドルセ考案の議員選出法

 

 本章の最初の節で、憲法草案を起草したコンドルセは独自の議員選出方式を考案していたと述べた。その方式は歴史の彼方に追いやられたようなもので、いまなおほとんど誰も注目していないが、実はかなり興味深いものである。

 当選する議員の数は10人、有権者は1000人としてそれを見ていこう。なお、前節までの議論では当選者は1人として話を進めてきたので、ここで複数の当選者を選ぶ話はこれまでのものとやや異なる。コンドルセによる議員選出方式は次のプロセスにより成る。

  •  [候補者の決定] 各有権者は、候補者として1000人のなかから何人でも推薦することができる。その数が多い上位30人が候補者になる。これは実質的には、第一章で言及した是認投票である。
  • [投票] 各有権者は、30人を三段階で、ファーストクラス10人、セカンドクラス10人、サードクラス10人にランク付けして申告する。
  • [開票第一段階] まずはファーストクラスの票だけを見る。すると1000人が10人の名前を書いているので、10000票があることになる。この10000票のなかで、501票以上を獲得した者のうち上位10名がまず当選する。なお、この501票とは、有権者1000人の過半数を意味する。そのような者、つまり501票を獲得する者が10名に満たない場合、つまり残りの定員がある場合は、次の段階へ進む(第一段階で誰も当選せず、残りの定員が10名全てという事態も起こりえる)。
  • [開票第二段階] ファーストクラスとセカンドクラスの票を見る。ただしここでは両クラスの票を全く同価値のものとして扱う。すると1000人が20人の名前を書いているので、20000票があることになる。このなかから第一段階で当選した者への票を全て除き、そのうえで過半数の501票以上を獲得した者の上位から残りの定員を埋めていく。ここで定員は必ず埋まるのでプロセスは終了する。

 この手法のもとでは、当選するどの候補者も、落選するどの候補者に対してもペアごとの多数決で勝つことができる。いわば複数の勝者がいる場合でのペア勝者規準を満たすわけだ。ペアごとの比較を重視する、実にコンドルセらしい手法だといえるだろう。

 開票第一段階でファーストクラスの票を優先する点だけが、ボルダルールに近い。実際、コンドルセはこの方式の説明で「もし私たちが順位にウェイトを付けたいのであれば」と言葉を添えており、ボルダの発想に歩み寄りの姿勢を示している。ただしここで行うのは、あくまでファーストクラスの票のなかで過半数を獲得する者を見付けることであり、ボルダルールのようにポイントで順序を付けることはしない。

 さらに、第二段階でファーストクラスとセカンドクラスの票を等しく扱うという点を見ると、この手法は決してボルダ的ではない。そしてその特徴ないし工夫こそが、ペア勝者規準の充足を成立せしめている。

 コンドルセは、ペア比較の重視とそれに伴う多数派の尊重について、一貫した姿勢を保っているといってよいだろう。では、なぜコンドルセはそこまでしてペア比較にこだわったのか。そしてまた多数派を尊重するとはいったい彼にとって何を意味していたのか。

 そもそもの話をすれば、ペア比較だろうが何だろうが、少数派の人は自分と異なる多数派の意見になぜ、またいつ従わねばならないのだろうか。その正当性の根拠は何か。これを理解するためにはコンドルセによる陪審定理、および彼が強く影響を受けた同時代の思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』に立ち入る必要がある。そしてそれらの議論は、望ましい集約ルールが何であるかの探究を超えて、近代市民社会を支える根本理念を、私たちに強烈に照射することになる。

ルソーの扱いについての後記

 最近ずっとランニングだの自転車だのばかり書いてたので、今回から「研究室」っぽく戻します。

 でもその前に。先日の月例10km大会は55分で、膝に「全く」ダメージなしで走れた。私にとっては達成だ。昨年9月から始めて、ケガをして回復して、トレーニングして、やっとここまで来れた。感激した。自転車が良かったように思う。いつもなら膝にくるダメージを、自転車でついた腿の前面の筋肉で受け止めている感覚があった。アブゥ。これでようやく、ケガをしないで走れる体になったのだろうか(コツが掴めた気はする)。であれば、これからは距離を伸ばしたい。

 さて『多数決を疑う』では多数決の諸問題を指摘し、それへの代替案を色々書いた。具体的には、ボルダルールと中位ルールがきわめて優れた――あるいは難点が比較的少ない――代替案だと論じている(単峰性が成り立つときには中位ルールで、それ以外のときはボルダルール)。

 それと、本書の特徴は、ルソーを正面から取り上げたことだと思う。これは「今さらルソー」なのだろうか。民主主義でルソーって、直球というか、ベタすぎるだろうか。私が政治思想の専門家なら、こういう「ルソー後を踏まえていない」議論は怖くて出来なかったのではないか、と思わなくもない。でも私はいまの社会を見て、自分がまだ近代以前にいるように感じることも多い。人類史のなかでルソーって、まだけっこう新しいぜ、と思うのだ。

 控えめに言っても、ここ200年ほどルソーは熱心に研究され、敬意を払われつつ、さまざまな批判的検討がなされてきた。私はそのような批判的検討を気にかけながらも、本書では直接的にはほとんど触れていない(ただし批判への応答になる文章をいくつか入れたつもりではいる)。以下、その理由を備忘的に、また関心のある人向けに、記しておく。 

  • まず新書という性質上、細々した議論は好ましくない。そもそも本書は投票の本で、ルソーの本ではない。ルソーにばかり紙数を使うと、確実に全体のバランスが悪くなる。そもそもの話として、「ルソーの投票理論」(とでも呼ぶべきもの)は、1985年以降にYoungやGrofman and FeldらのAmerican Political Science Review誌の論文などで発見されたものである。そして大方の「ルソー批判」は1985年以前になされたもので、ルソーの投票理論には関係していない。

 

  • 「ルソー的な言説」があまりに日本社会で力を失っているように思える。公共性とか公共圏とか、「何それ」な人が圧倒的に多いのではないか。経済学だと公共財は出てくるが、それはあくまで財の利用的性質に関するものであって、公共とは何かという問いは立てられもしない。政策立案の場でも、そのようになってはいないか。

 

  • ルソーはまあ、極端だ。だが規範理論だから、範型を与えるという性質上、特質を際立って浮かび上がらせるのは当然だ。経済学で「完全競争」を扱うのと同じである。「不完全競争」の理解には、完全競争の理解が前提である。そもそもルソーへの批判的検討が理解できるほど、ルソーが理解されているとは思えない。そして完全競争よりルソーは難しいし、私も「理解した」と言い切れるほどの勇気はない。

 

  • ルソー以外に、多数決を深く・包括的に考えた人を、他に見付けられなかった。たぶんいない。異なる人間が共存していこうとする。合議しても満場一致にたどり着けるとは限らない(それが通常である)。そのとき、多数決の少数派が多数派に従う「べき」なのはなぜか。その正当性の根拠は何か。従わないと罰されるからというのは服従であり、義務を遂行すべき理由の説明にはなっていない。

 

  • フェアプレイ的な説明「今日は僕が勝ったが、明日は君が勝つかもしれない。そのときは僕が従うから、今日は君が従ってくれ」には承服しがたい。少数民族や性的マイノリティは明日も明後日も少数派だろうからだ。そもそも明日を迎える前に今日、虐殺されたり抑圧されたりするのは、正しいことか。「何を・誰が・どのような・多数決で決めてよいのか」包括的に考える必要がある。一般利益を・人民が・熟議的理性を働かせたうえでの・多数決ならばよい、が私のルソー読解だ。

 

  • こういうクソ真面目なことを言い続けるのも学者の役割ではなかろうか。でないと「多数決だから民主的」なる言説がまかり通ってしまう。多数決主義(マジョリタリアニズム)は民主主義ではない。一般利益だの理性だのいうと「インセンティブはどうなるのだ」みたいに簡単に嗤う人がいるように思うが、インセンティブ・メカニズムで出来ることってごく限られている。インセンティブは大事だが、メカニズムデザイン理論に山積する不可能性定理の群れを舐めてはいけない。数学的に「できない」がたくさん証明されているのだ(『多数決を疑う』ではそれについて「できる」と併せいくつか記述がある)。
メカニズムデザイン―資源配分制度の設計とインセンティブ

メカニズムデザイン―資源配分制度の設計とインセンティブ

 

 後期ロールズだと、複数の「正義」(のようなもの)が併存するとして、人々は「重複する合意」で共存しようとなるわけだが、そこでもやはり最終的には多数決が用いられる。だがそこで、なぜ少数派が多数派に従う「べき」なのかは説明されない。

 その正当性を説明するためには、最終的には、やはり「人間がともに必要なものを志向する意志」のようなもの、一般意志的なものが必要なのではないか。そのように考えると、どうせなら一般意志を正面から扱ったほうがよい。むろんこの概念は全くもって一筋縄でなく、「こう」と説明できるものでは決してないのだが。

 以下は、これからまとめること。おそらく多数決で決めてよいことは、ごくわずかしかない。これを真面目に考えると、政府の機能の最小化を求めるリバタリアンが正しいとなるだろう。ただしそのような政府のもとでは、功利というか社会厚生が相当低くなるように思う。「厚生と権利の狭間」でいうと、権利が強く優先して、厚生が著しく低くなるケースだ。そこで多数決というか政治で決める領域を増やすとして、どうにか複数の意思を一つに集約せねばならないとしたら、どうするか。

 もし人々が「メタ合意」(by Christian List)を取れるなら、そのとき単峰性が成り立ち、そこで中位選択肢(=コンドルセ勝者)を選べばよい、と私は考える。中位選択肢が功利主義的最適解になるという定理があるからだ。こうしたことを、これから整理して、11月に開催予定の規範経済学シンポジウム(於 一橋講堂)で話そうと思う。準備が間に合えば、5月の日本経済学会の招待講演(於 新潟大学)でも少し触れる。 

厚生と権利の狭間 (シリーズ「自伝」my life my world)

厚生と権利の狭間 (シリーズ「自伝」my life my world)

 

書いてた途中の記録(その7、最終回)

(これまでのあらすじ) 岩波新書『多数決を疑う』を書いていた坂井は、長年悩まされていた肩や背中や腰などのハリ・コリをどうにかすべく、武田真治『優雅な肉体が最高の復讐である』を参考に筋トレをはじめました(世代的に彼は教祖なのです)。するとあっという間にハリ・コリが無くなりました。そして、あだち充の作品群の影響でランニングもはじめました。これもなかなか楽しいのですが、どうも膝によろしくありません。やがて渡辺航『弱虫ペダル』の影響で、自転車に関心が向かうようになりました。肝心の『多数決を疑う』は最近発売されました。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 自転車に関心を持ったのは弱ペダの影響だけではない。同僚の金子勝さんからいただいた『儲かる農業論』(集英社新書)のあとがきに、楽しそうに自転車のことが書かれていたのもきっかけだ。金子さんは博識で、全く威張った所がない、素敵な人だ。へえ自転車に乗ってるのか、何かいいなと思った。 

儲かる農業論 エネルギー兼業農家のすすめ (集英社新書)

儲かる農業論 エネルギー兼業農家のすすめ (集英社新書)

 

  某日の夕方、某仕事関係で、果てしなく面倒くさい長いメールを書いた。周囲に理不尽に怒っている人(慶應の人ではない)に、「まあまあ」とたしなめる内容だ。げっそりである。幸いそれで状況は静まったが、メールを書くのに90分も使ってしまった。その人は私に、迷惑料とは言わないが、稿料二万円程度を支払ってほしい。

 消耗を回復するため、他の仕事を早めに片づけて、研究室を出て自転車屋に向かった。だがその店には、私が欲しい機種には、色とサイズが合うものがない。入荷には3-4か月かかると言われた。自転車の入荷にそんな時間がかかるのか。がっかりして、電車を乗り継ぎ、別の自転車屋へ向かった。

 陽に灼けた店員がいて、在庫を尋ねたら、ニカッと笑って「一台だけ在庫がありますよ」と言われた。いい笑顔だ。カモを見付けた資本主義の笑顔だと思う。私の心は躍る。その店員と話しているうちに、流されるまま買うことになった。自己決定した覚えはない。だが私は自転車屋に行くと決めた時点で、流されるまま買うことを求めていたのだと思う。

 買ったのはビアンキのクロスバイクで、エントリーモデルの「ROMA4」だ。色は定番のチェレステグリーン。本体が税込みで七万円ちょっとだが、高いのか安いのかよく分からない。ママチャリと比べたら高いが、店内にある何十万もするロードバイクと比べたら安い。そもそも高い安いは、価値に対して判断するものだが、私はこの時点ではその自転車の価値を分からない。本体の他に、前後のライト・スタンド・ヘルメット・仏式空気入れ等が計三万円くらいかかった。

 自転車の本や雑誌ではロードバイクが礼賛されている。クロスバイクの地位は高くない。ママチャリの延長線上のように扱っているものもある。自分が購入するのはクロスバイクのエントリーモデルだ。もし普段乗っているママチャリと大して変わらないのだとしたら、けっこうな無駄遣いだ。試乗すればよいと思われるかもしれないが、購入を決めてから組み立ててもらうものなので、特定機種の特定サイズを試乗することはできない。

 数日後に、組み立ててもらった自転車を受け取りに行った。おお、チェレステグリーンがピカピカに輝いている。最初は高いサドルに違和感があったがすぐに慣れた。

 私はずっと、弱ペダ番外編(SPARE BIKE)での山神、東堂のセリフ「なんて効率的な乗り物なんだ」が気になっていた。経済学者なので資源配分の効率性なら意味が分かるが、乗り物が効率的とは果たしていかに。 

弱虫ペダル SPARE BIKE(1)(少年チャンピオン・コミックス)

弱虫ペダル SPARE BIKE(1)(少年チャンピオン・コミックス)

 

 走ってみると、なるほどこれは効率的な乗り物だと思った。わずかの力でぐいぐい前に進める。そして、すごく楽しい。軽くてスピードが出て、ブレーキがきゅっと効く。急な上がり坂もすいすい登れる。こんな世界があったのか的に楽しい。ママチャリの延長線上では全くない。膝にもやさしいというか、ノーダメージである。

 最初の一か月はマンガで読んだことが本当なのか、自分なりに色々試した。もちろん他の人がもっといい自転車でやると結果は変わりうるので、あくまで私のケースです。

  • 長い上り坂を、ギアを重くしながら登ると、苦しいけど速くなって「オレ、生きてる」と感じるのか? これは、ならなかった。苦しい以前に、ギアを重くすると登れなくなり、自転車が停止して自分は無感情化した。ただし軽いギアなら急な坂もすいすい登れて、羽根が生えた気分になる。
  • 「あるるるる」と叫びながら直線を全開で走ると速くなるのか? これも、ならなかった。酸素がダダ漏れするだけだ。黙って歯を食いしばったほうが絶対に速い。
  • 「そおれええ」や「あああああ」と叫びながら坂を上ると速くなるのか。これも、ならなかった。「あるるるる」と同様に、漫画的表現なのであろう(もちろんそれで構わない)。
  • 歌いながら走ると速くなるのか? これは、なった。不思議である。「あるるるる」だとダメなのに。歌にはブレスが適度なタイミングで入っているからだろうか。いろいろ試したが、清春だと特に速くなることが分かった。四十歳手前になっても自分が学生時代に聴いていた曲ばかり鼻歌するとは思ってなかったが、たぶん一生そうなのであろう。サドルに跨ると「だから べるべぇとの そらのしーたー」と口をついて出る。

 

 自転車通勤を何回かやったが、これはいまいちだった。都心は信号で止まる回数が多すぎるし、幹線道路でトラックの横を走るのは危ない。事故だけは嫌だ。交通ルールを守り、危ない所は歩道をゆっくり走ると、16kmでも1時間10分くらいかかる。脚で走っても1時間40分で行けるから、危険度の高いことをやっている割に、お得感が乏しい。ビルだらけで景色もよくない。

 自宅近辺で乗るのが中心になった。ジムに行くときや、多摩川沿いにランニングに行くときにシャーッと乗るのが、一番気分がいい。単なる移動だったのがエクササイズに変わるし、速いし、何より楽しい。痩せたいわけではないが、日常的に乗っているうちに、11%台だった体脂肪率が9%台に下がった。In Bodyで計測すると、一か月で脚の筋肉が左右に0.4kgずつついた。

 さて「どうせロードバイクが欲しくなりますよ」というロードバイク乗りの予言は当たったかというと、見事に当たった。ロードバイク欲しい。自分も深い前傾姿勢を取りたい。それはもっと楽しいのではないか。ただ、最初からロードを買ってそのように思えたかといえば、それは分からない。自転車は面白いと教えてくれた自分のクロスは良いものだったと考えてもよいだろう。

 ただしロードが欲しいのは事実なので、試しに妻に「あなたとサイクリングに行けたら楽しいと思う。そこで、あなたには僕のクロスを貸すから(あげないけど)、僕が新たにロードを買うというのはどうだろう」と提案したら拒否られた。

 ただし現実問題として、予算もだが、もう一台、自転車を室内保管する場所を見付けるのが難しい。すでに本が廊下に溢れている。あとはまあ、パンク修理はできるようにならなければ。そもそも自分は街乗りばかりで、最大でも一日50kmくらいしか乗らないので、クロスで十分である。だがこれはあくまで理屈の話で、理屈は物欲を抑制するものの、支配するわけではない。

 ROMA4の一か月検診(子供かよ)のため、それを購入した自転車屋に行った。世話になったスマイリーな店員に「ロードもほしくなりますよね」と話したら、彼は「そう仰ってもう一台購入されるお客さん、多いんですよ」と言い、にやりと笑った。

 彼に「悪魔のささやきですね」と返したら、「ふふふ、まずはそのクロスバイクを乗りたおしてからですね」と言われた。そして洗浄と注油の整備セットを勧められるまま買った。次回は三か月検診だ。無料サービスの定期検診というが、私はただのカモで、このまま資本主義の陰謀にはめられたまま、遠くない将来ここでロードを買う気がする。

 

 以上で「書いてた途中の記録」は終わりです。こんな感じで、ばたばた生活しているうちに、岩波新書『多数決を疑う』が4月22日に出版されました。ここで自転車だの筋トレなど下らないこと(いや本当は全然下らなくないですが)書いてないで、この本の紹介でもすればよいように思うのですが、一番言いたいことをまとめて200頁の新書に仕上げたので、それをさらに要約的に説明する気になれない。

 この「書いてる途中の記録シリーズ」は、たぶん全部で二万字くらい書きました。けっこうな労力だ。われながらニーズの見込めない文章を延々と書いたものだと感心しますが、大真面目に『多数決を疑う』を書いているうちに、澱のようなものが自分にたまっており、それを掻き出したかったのだと思います。個人的にはスッキリした。どなたか全部読んでくれた方がいるのか存じませんが、お付き合いいただきどうもありがとうございました。

書いてた途中の記録(その6)

 (その5)からの続きです。これは近刊の岩波新書『多数決を疑う』を書いていた途中の個人的な日記のようなものですが、その本の内容とは全く無関係に著しく脱線しています。

 

 1月末の10km大会に出た。タイムは57分、膝にはちょっとダメージだが生活への支障はなし。この57分は、遅いのはよいとして、途中トイレに寄ったのがダメだった。寒かったのと、久々で緊張していたこと、何より朝食でコーヒーをがぶがぶ400ml飲んだのが原因だろう。馬鹿みたいだ。自分でもいったい何をやってるんだと思うが、真面目にやってこうなので、馬鹿というより滑稽の領域だと思う。

 2月の課題は「途中でトイレに行かないこと」になった。ところがこの回は周囲のペースに釣られて最初の2kmを過度なオーバーペースで走り、早々に膝が痛くなった。GPS時計を付けてはいるが、釣られているときはオーバーペースに全然気付かない。気付いたときには、うわあ失敗した、と思った。本当なら膝が痛くなったらその場で棄権したほうがよい。しかし、たかが10km大会で棄権はいやだ。途中でストレッチしながら、ごまかしごまかし、せめて1時間を超さないよう、59分台で走り終えた。爽快感はない。泣きそうな気持ちだ。それから2週間は膝の養生のため走らなかった。

 この辺りで、悪いのは自分の膝ではなくランニングだと考えを切り替えるようになった。ランニングは体に悪いのだ。ランニングは全身運動だと言われはする。確かに、はじめの頃は長距離走ると、翌日は背中に筋肉痛が出た(これは筋トレを続けるうちに無くなった)。だが、ランニングは予想以上に「全身も」使うだけで、膝に高い負担がかかるのは間違いない。もっと膝にやさしい手軽な有酸素運動はないのだろうか。

 私は年末年始にあだち充の諸作を一気読みした後、年明け1月には渡辺航「弱虫ペダル」へと移行していた。「弱虫ペダル」は週刊少年チャンピオンに連載されている、累計1300万部を超す大人気の自転車マンガだ。本の出版を千部単位で考える自分には、1300万とは想像を絶する数字である。これを読んで自転車を始める人も多いらしい。たしかに弱ペダには自転車で走ることのプリミティブな愉しさが活き活きと描かれている。青春スポ根ものとしても面白い。自転車は膝にもやさしそうな気がする。 

弱虫ペダル 39 (少年チャンピオン・コミックス)

弱虫ペダル 39 (少年チャンピオン・コミックス)

 

  私は毎月の10km大会にいつもママチャリで行っている。弱ペダを読みはじめてから、会場の自転車置き場に、スポーツ自転車が多いことに気付くようになった。かっこいい。それまで自転車を「子供イスがついているもの」と「ついてないもの」の二種類でしか分類していなかったが、ここで「スポーツ自転車」と「そうでないもの」の分類も加わるようになった。晴れた日に、水面光る多摩川沿いの会場に、こういう自転車でシャーッと来られたら、どんなにステキなことだろう。想像するだけでうっとりだ。

 しかし弱虫ペダルで出てくるロードバイク(競技に出られる)はちょっとこわい。値段も高いし、揃えるものも多そうだ。クロスバイク(もっとカジュアル)なら値段も控えめだし、ロードと比べると色々気楽そうだ。通勤にも使う街乗りメインなら、クロスでよいのではないか。

 周りの人に聞くと、ロードに乗っている人は「クロスに乗るとどうせロードが欲しくなるから最初からロードで」と、クロスに乗っている人は「クロスのほうが街乗りに適しているしこれでも十分爽快」のように、それぞれ自分の乗っているほうを勧めてきた。まあ、当たり前だ。

 私みたいに完全な初心者が最初からロードに乗って、その良さをきちんと分かるのだろうか。パンク修理くらいは自分でできるようになってからロードに乗ったほうがよいのではなかろうか。

有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)

有閑階級の理論―制度の進化に関する経済学的研究 (ちくま学芸文庫)

 

 もちろん自転車としての性能は高いほうがいい。しかし私は、自転車の性能だけでなく、かっこいい自転車で颯爽と競技場に現れる自分のセルフイメージを購入したい。性能の高さはそのイメージ強化に資するものの、消費の欲求を支える全てではない。

【さらに次回に続く】 

ブランド―価値の創造 (岩波新書)

ブランド―価値の創造 (岩波新書)

 

書いてた途中の記録(その5)

(その4)からの続きです。

 

 2014年の大晦日に、おそるおそる走るのを再開した。多摩川沿いのいつものコースを8.5km走った。どうやら脚はそれが可能な程度には治ったようであった。よかった。正月が明けてからは、そのコースを週に2-3回のペースで走った。

 正月には子供を連れて第二京浜まで箱根駅伝を見に行き、旗を振って早稲田のランナーを応援した(卒業生なので)。私はそんなにスポーツを観ないけど、箱根駅伝だけは必ず毎年応援に行く。残念ながら慶應は出場していない。ランナーはおよそキロ3分で走るから、目の前を一瞬で駆け抜けていく。観戦もあっさりしてていい。その後は自転車で川崎大師に初詣に行って屋台で焼き鳥とリンゴ飴を食べた。

 その自転車は電動の三人乗りママチャリで、前後に子供を乗せられる。子供は年長と年中で、いまが三人乗りできるギリギリ最後の時期だろう、と切なく思っていたら数日後に前の子供イスにヒビが入り使えなくなってしまった。五年以上酷使していたから仕方ない。結局その初詣が最後の三人乗りになった。楽しかった。子供の成長は早いので、そのときの瞬間の切なさを味わえておけて本当によかった。

 1月から毎週金曜は、研究室から自宅まで約16kmを走って帰ることにした。LSDだ。Long Slow Distance、長くゆっくり走るのだが、私はこれを「LSDキメる」と呼んでいた。妻に対して「俺、今日ちょっとLSDキメて帰るから」のように使うのが正しいが、人前で言うと幻覚剤中毒と誤解されるだろう。

 なぜ走って帰ることを思いついたのか、よく分からない。何となく自分内でウケるからだと思う。ほとんど手ぶらでランニングウェアで研究室に来て、仕事して16km走って帰るのは、なんか面白い。所持品はSuica、Visaカード、1000円札一枚だけだ。市街地なので信号が多く、16kmにだいたい1時間50分かかる。

 では、これは面白かったかというと、いささか微妙であった。国道沿いを延々と走るので、景色が単調なうえ空気も悪く、なんかこう、五感が喜ばない感じだ。季節の移り変わりや自然を楽しむ要素が乏しい。それでも初めて多摩川まで辿り着いたときには感激した。

 一月は『多数決を疑う』の最終的な校正をひたすらやり、また内閣府の経済理論研修が始まったのでそれに注力していた。ところで、こんなふうに書くと、他の仕事をしてないみたいですが、慶應では普通に授業と学内業務があって、その他学会関係の仕事や共同研究などがあります。出版社や官庁の方と会ったりもします。このブログだけだと暇そうに見えるかもしれませんが、実は、けっこう忙しいのです。

 そんな中で、忙しい間を縫ってでもなく、仕事を片付けてからでもなく、とにかく決まった時間が来るとすべて放りだして走る・ジムに行くというのが、私がやっていることです。どこにしわ寄せが行っているのか、よく分からない。

 それでも予定通り1月30日の午前中に『多数決を疑う』を校了して編集者に送り、午後には一橋の規範経済学研究センター設立記念シンポジウムに参加して祝辞を述べた。ちなみに私は本も雑誌も新聞も、締め切りを破ったことが一度もない。神は細部に宿るといえど、Done is better than perfectionである。制限時間ギリギリまで最善を尽くしたら、後は原稿に恥が残っていても仕方あるまい。

 LSDを始めたことで、距離への抵抗感がかなり減った。だが、それでも、たまに膝が痛む。10kmを超すと痛くなりがちだ(一度それでギブアップしてバスに乗って帰った)。もうケガだけはご免である。1月は120kmくらい走ったが、私はそろそろ自分のなかで目標というか、落としどころを見付けなければならない。

 マラソンは無理だ。世間には「マラソンが趣味」の人がいるが、本当にすごいと思う。私は膝が痛んで完走できない。自分のせっかちな性格的にも、長時間走るのは、多分あまり合っていない。

 ハーフマラソンには関心あるが、それでも膝にノーダメージとはいかないと思う。そもそもまだ、自分は10km大会をノーダメージで走れたことがないのだ。というわけで、背伸びはやめて地道に、目標を「10km大会をノーダメージで走ること」と定めた。

 ところで、一人で10km走ることと、10km大会を走ることは、すいぶん勝手が違う。前者は信号で止まるので自動的に休みが入るし、一人なので周囲のペースは関係ない。後者だと信号がないので休まないし、集団なので周囲のペースにつられる。私には10km大会でさえ十分難しいのだ。こういうのは解釈の問題で、自分の走力が低いのではなく、自分には短い距離でも冒険なのだと思うことにした。少量のアルコールで酔えるようなもので、効率的でいい。

 というわけで、「ほどほどでいいじゃないか」と思うようになった。あんまり趣味に没頭したり、本気で取り組まなくてもいい。ほどよく楽しめれば、生活の質が上がればそれでよいではないか。

 2月に入ってからは「経済セミナー 4-5月号」用に、佐藤滋・古市将人(著)『租税抵抗の経済学――信頼と合意に基づく社会へ』(岩波書店)への書評を書いた。いい本だ(どういい本なのかは書評に書いた)。人間は社会を作るが、社会は人間を作るという、社会科学として王道の一冊だと思う。

租税抵抗の財政学――信頼と合意に基づく社会へ (シリーズ 現代経済の展望)

租税抵抗の財政学――信頼と合意に基づく社会へ (シリーズ 現代経済の展望)

 
経済セミナー 2015年 05 月号 [雑誌]

経済セミナー 2015年 05 月号 [雑誌]

 

書いてた途中の記録(その4)

(その3)からの続きです。たぶん(その6)くらいまで続く気がする。

 

 9月末に膝を痛めたので10月は中旬まで走れなかった。下旬になり少しずつ走り始めたが練習は足りない。そのまま10月末の10km走に出場した。快晴の多摩川河川敷。きちんとしたシューズにしたので前回より速く走れるはずだと予想していた。より正確にいうと、走れるはずだというより、走れて然るべきだと勝手に判断した。

 本番は途中で膝が痛くなったが、エキサイトしているので痛みは感じにくい。そして、そもそも速く走れるべきなので痛むわけがないという理由から、苦しいまま走り続けた。自分でも馬鹿だと思うのだが、痛んでいる事実より、痛むわけがないという思い込みを優先したのだ。結果、タイムは51分となった。前回より1分ほど早い。

 レース後は草の上に寝転がってストレッチした。お陽さまのもと草むらに寝転ぶのは気持ちいい。今回は事前にコンビニで氷を一袋買っており、かなり丁寧にクールダウンもした。シューズを変えた割にはタイムが伸びなかったと思いながら、膝周りに貼っていた「膝保護テーピング」みたいなものを剥がした。このとき既に膝に痛みはあったはずだが、エキサイトしているのでまだそれに気付いていない。

 会場の河川敷から自転車で帰ったが、自転車は漕げた。だが帰宅すると階段が上れないことに気が付いた。両膝にズキンと鋭い痛みが走るのだ。手すりをつたってどうにか二階のリビングに上がった。下りは上りよりさらに痛く、これはまずいかもしれないと思った。

 次の日も、その次の日も、膝は一向に良くならず、良くなる気配も感じられなかった。階段が使えないと通勤は不便をきわめる。膝を襲うズキンがこわい。いちいちエレベータまで遠回りせねばならないので、面倒だし時間もかかる。エレベータが無い所では、手すりで這うように、脂汗を流しながら階段を移動せねばならなかった。

 学内でも階段でズキンときて、踊り場でうずくまることが何度かあった。慶應の塾生は紳士淑女なのでこういうとき、とても親切に助けてくれたり声をかけてくれたりするのだが、あまりに格好悪いので、見て見ぬ振りをしてほしいと思うこともあった。その節はどうもありがとう。こういう理由だったのです。

 それにしても治らないので、整形外科かハリのどちらかに行くことにした。だが整形外科はつまらない気がする。痛み止めの薬を出されて終わりなのではないか。自分は西洋医学にはいささか飽きている。その点ハリは未体験なので、スポーツ専門の鍼灸院に行くことにした。そこでは問診を受け、超音波で膝をスキャンされ、「腸脛靭帯炎」(ちょうけいじんたいえん)だと診断された。

 ランナーズニー。カタカナでいうと微妙に格好良い気がするので、それについてはエンジョイするとして、ものすごく生活に困る。筋力やストレッチが足りないとのことだ。回復を早めるためハリ治療を受けることにした。

 結論からいうと、ハリは割とよく効いた。施術してもらったその場ですぐ良くなるわけではないが、翌日には痛みが明らかに改善している。このハリ治療は、身体の柔らかいところに金槌でハリを深く刺して、そこに電流をビリビリ流すというものだ。私は「痛気持ちいい」は好きなので自分に向いていると思ったが、実際は全然気持ち良くなくて、ひたすら痛かった。痛みのなかに気持ち良さを見出す力が自分に不足していたのかもしれない。とにかく痛くてヒィヒィものであった。

 何回かハリ治療に通って、生活上のアドバイスを聞き、付けるべき筋肉の箇所を教わった。さすがスポーツ専門院らしく、鍼灸師はランナーで、ランニング用の筋肉とストレッチにとても詳しかった。そして、およそ一か月半後の12月中旬になって、ようやく日常生活が不自由しないまでに回復した。

 その間はもちろん走れなかった。せっかく集めたグッズ(シューズ、ウェア、走用ポーチ、GPS時計、音楽機器など)が悲しい。無駄遣いだったのか。しかしまあ交通事故に遭ったわけではないし、世の中には他に憂うべきことが山のようにある。

 というわけで、これまでと同様に、週に二回、黙々とジムに通い続けた。それまで上半身中心だったが、走るのに必要な筋肉を作るために、脚のマシンも使うようにした。だが膝が痛いと脚のトレーニングにも差し障りが出る。膝に負担が少ないやり方を見付けるのに時間がかかった。

 ところで、脚に限らず、ジムのマシンで強い負荷をかけて短時間でオールアウトすると、割と早く・ピンポイントに筋肉を付けられる。マシンは本当に効率的だ。私の場合は素人の健康志向的なトレーニングで、いまもムキムキではないが、それでも体全体に筋肉が付くと、本を何キロも持ち運べるようになったし、ついでに寒がりでもなくなった。あと、実感としては体温が上がった。

 この時期には『多数決を疑う』を推敲していた。有り難いことに丁寧なコメントを多く頂いて、コメントにリプライを送ったり、加筆修正したりしていた。丸ごと削った節もいくつかある。削った箇所の多くは「マイナーだが私が専門家的な関心を持ったもの」である。一例には「コンドルセがジロンド派の憲法草案に載せていた独特な議員選出方式」がある。私には面白いのだが、おそらく多くの人にはそうでないし、話の腰を折りそうだから削除した。

 なんか最近、膝痛や筋トレだのばかり書いているので次回はその文章を貼ります。【追記】やっぱり長いのでやめます。何か別の形で公開します。

書いてた途中の記録(その3)

 この(その3)は、(その1、2)から続けて読まないと、あまり意味が分からないと思います。本を書いてたときの日記的なものですが、書くことと関係ない内容が(とても)多いです。

 

 9月になり、予定通り月末に『多数決を疑う』の草稿を書き終えた。今作は9月末に草稿を書き終えて、1か月筆を置いて、その後3か月改訂に使う予定としていた(実際その通りにした)。

 編集者に原稿を渡し、同業者に「気が向いたら読んで」と案内のメールを送り、いったん手を放した。そして月例の「規範理論研究会」で、草稿の一部を発表した。規範理論研究会は、小ぢんまりとして温かい研究会だ。後藤玲子先生や鈴村興太郎先生がいて、パッションがある。概ね好意的に発表を聞いていただけたように思う。

 月末には多摩川沿いで行われている10km走に出場することにした。日常的に5-8kmは走っていたので、10km走るのは問題ないはずだ。

 結果は、タイムは52分だったが、膝を痛めた。おそらく52分は39歳初心者の自分にとっては悪くないタイムだ。だが膝が痛くなり、その日から2週間以上、生活に不自由することになった。階段を下るのがキツくて通勤も辛い。これではきちんと走れたことにはならない。

 「走って膝を痛める」ということの意味が、自分はそれまでさっぱり分からなかった。「走れるんだから、痛まないでしょう」と単純に思っていたのだ。だがこれは「借金できるんだから、返済できるでしょう」というようなものだと知った。 

 膝の痛みが少しおさまると、表参道にあるアシックスのランニング専門店に行った。膝痛は走力不足ではなく、シューズのせいだと思ったのだ。店員さん(どう見ても上級ランナーだ)は親切で、足を3D計測してぴったりのシューズを探してくれた。しかし、ここでキロ5分(時速12km)用のシューズを選んでしまった。自分はキロ6分(時速10km)用を選ぶべきであったように思う。なんせ約キロ5分で10km走って膝を痛めたのだ。

 書店には市民ランナーによるマラソン体験談の本やマンガが結構ある。しかしどれも、著者らはあまりケガをしていないように見える(だからマラソンなんか走れるわけだが)。自分の場合、たかが10kmである。ケガなんかするわけがない。これは過信というか無知のなせるわざだが、そのときの私なりに合理的な判断だったのだ。

 ランナーの作家さんは、マラソンではなく、10km走やハーフマラソン中心の本も描いてくれないだろうか。「はじめました系」の作家さんはなんだかんだで結構レベルが高いと思う。若い人ではなくて、できれば中年の人が、いきなり走って膝を壊す話とか、リアルに知りたい。自分に近い低レベルランナーによるカタルシスを欠く実録が読みたい。それなりに裾野の広いマーケットがあるように思うのですが。 

マラソン1年生

マラソン1年生

 

  キロ5分用のアシックス「ゲルフェザーグライド2」は、履くと足が前に進む、よいシューズであった。スニーカーとは全然違う。これなら膝を傷めずに走れるはずだ。だが自学自習は効率が悪い。初心者はきちんとしたコーチにつくべきだった。しかし私もランニングにそんな時間は取れない。平日は仕事があるし、休日には家庭がある。そんなに本格的に走りたいわけでもない。自学自習を続けることにしたが、そのせいか翌月に痛い目に遭うことになる。

 この時期は猪口孝先生に招いていただいたコンファレンス用の発表論文を作成していた。猪口先生が学長の新潟県立大学主催「実証政治学の最先端学術会議」というもので、私は実証政治学どころか規範経済学の人間なのだが、さまざまな社会科学の人達と交流させてもらうのは本当に嬉しい。また、これとは別の方々と、今年から有斐閣で社会科学の研究会を始めさせてもらっていて、いつか本になると思う。「社会科学」をもっと大切にしたい。

 そのコンファレンス論文の題材は都道328号線問題とメカニズムデザイン。来月開かれる日本経済学会の招待講演でも話す予定だ(2015年5月、新潟大学)。『多数決を疑う』から派生的に書いたものだ。私は日本語で一般向けの本を、英語で専門家向けの論文をと割り切って書いているが、これは前者が後者を生み出したケース。初めて定理と証明がない論文を書いたが、誰かに面白がってもらえるのかどうか知らない。

Sakai, T.  "Considering Collective Choice: The Route 328 Problem in Kodaira City"

http://www.geocities.jp/toyotaka_sakai/kodaira0323.pdf

 

 この「書いてた途中の記録シリーズ」は、私が飽きるまで、まだ続きます。続ける理由はノスタルジーと自己満足以外には何もないです。もう自分を中年とアイデンティファイしたので、過去を振り返ったり、懐かしがったりするのに抵抗ないです。むしろそれに積極的なくらい。次回は10月からのぶん。

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

 

書いてた途中の記録(その2)

 前回「書いてた途中の記録(その1)」からの続きです。個人的な執筆記録なのですが、かなり話が脱線しているので、途中から読んでも意味が分からないと思います。

 

<昨年8月の続き>

 走ると言っても、私は完全な初心者なので、やり方が分からないし、やり方が分からないことさえ分からない。とりあえず近所の小山を周回することにした。信号がないので走りやすい。一周およそ2.5kmのコースを、2周することから始めた。ランニングシューズというものも知らなかったので、いつも履いている普通のNIKEのスニーカーで走った。厳密にいうと、ランニングシューズの存在は知っていたが、スニーカーとの区別がついていなかった。

 夜、子供を寝かす準備が出来てから、だいたい21時くらいから走り始める。ところで、うちの子は小さい時から、寝る準備が出来たら、放っておくと勝手に寝床へ行って寝る。寝かしつけはいらない。これは割と他所の家庭からうらやましがられる所だ。どうしてこれが可能になったのかよく分からない。

 一週間をだいたい「ラン、ジム、休み、ラン、ジム、休み」のようにエクササイズのスケジュールを組んだ(これだと6日だが)。最初のうちは、ジムの翌日は筋肉痛で走れないので、ランの次の日にジムという順番は大切だった。それと、超回復期間を2日間取るため、ジムとジムのあいだを2日は空けた。私は「超回復」は信じている。

 真面目にそのようなスケジュールを守り続けると、もちろん弊害が出てくる。仕事時間が減るのだ。着替えやら移動やら何やらしていると、90分くらいかかる。

 私は書くのがそんなに早くない。60分で800字が目安である。90分を週に4回ということは、一週間で4800字ぶんをエクササイズに費やしていることになる。これは機会費用が高い。3000字で雑誌記事になるし、10万字あったら一冊の本になる。読書時間も減った。そもそも仕事をきちんと続けられるためにエクササイズを始めたはずなのだが、それが逆効果になっている。ショートスパンで見る限り、生産性は落ちた。

 生産性低下は好ましくない。しかし、おそらくこうしたエクササイズは、私にとって趣味になり始めたのだ。私はもともときわめて無趣味な人間で、仕事だけしていても全く苦痛ではないが、それでも昔から趣味のある人をうらやましく思っていた。人生が楽しそうに見えるからだ。 

無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)

無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)

 

  「仕事が趣味」という言い方には抵抗がある。立身出世に直結するような「趣味」は目的に資する手段であり(あるいは手段的側面が強く)、純粋な趣味ではないだろう。私が欲する趣味のあり方は、その行為自体が目的となっているようなものだ。

  8月は慶應で、大垣昌夫さんと規範経済学のコンファレンスを開催して、案外と忙しかった。それに伴いJapanese Economic Reviewの規範経済学特集号の編集作業をした(自分はゲストエディターで、今年6月に刊行予定)。そして初夏のころから國分功一郎『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)を熱心に読んでいて、これは実に立派な本だと思った。

 何となくだが、「良い本」や「良書」という言い方をするのが好きではない(他人からそう評価していただくのは素直に嬉しいが)。良し悪しを決定する上位の審級に自分を置くように感じるからだ。「面白い本」という言い方は、便利なので使いはするが、「面白さ」を基準とすること自体に違和感がある場合も多い。その点「立派な本」だと、秀でたものを下から仰ぎ見ている感じで、心の立ち位置としておさまりがよい。

 『多数決を疑う』の第5章で都道328号線問題を扱うことにした。これは投票率37%の選挙で勝利した小平市の小林市長が、都道建設にかんする住民投票の開票に投票率50%を求め、それが満たされなかったため開票されなかったという問題だ(これは問題のごく一部に過ぎない)。最後は話をメカニズムデザインにつなげて話をクローズさせ、構成が完全に固まった。 

来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題 (幻冬舎新書)

来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題 (幻冬舎新書)

 

  この「書いてた途中の記録」シリーズは、しばらく、私が飽きるまで続きます。次回は9月のぶん。

書いてた途中の記録(その1)

 今度出す『多数決を疑う』を書く過程の、個人的な記録です。途中からなんか別の話になる。

  • 2014年5月中旬 企画会議が通った。仮タイトルは『投票の科学』で、スッキリしてていいと思う。本当は『投票の人文社会工学』にしたかったのだが、まあこれでよい。これでようやく書き始められる。企画会議を通らなくとも書けばよいではないかと思われるかもしれないが、やはり通らないと、気分がアガらないので書けない。
  • 6月 なんか結構な分量を書いた気がする。妻が体調を崩し、育児や家事も大変だったので、このころの記憶がない。何をしていたのか全く覚えていない。
  • 7月 この月もわりと書いた気がするが、やはり記憶がない。焼肉屋に行った回数が多かった気がする。7月20日ごろには前半の100ページが仕上がっていた。気合が下がり気味のときには、「我書く、故に我有る」の猪口孝先生『実証政治学構築への道』をソファに寝転がって読む。
実証政治学構築への道 (シリーズ「自伝」my life my world)

実証政治学構築への道 (シリーズ「自伝」my life my world)

 
  •  8月 子供とよく市民プールに行った気がする。あと、個人的経験でいうと、ルソーはいったん「チャクラが開ける」と急に分かるようになるのだが、私はこの辺りの時期にチャクラが開けて、ルソーに関するジャーナル論文も割とちゃんと読めるようになった。市民プールの「市民(citoyen)」となんか関係あるのか。こうなると筆も進む。しかし、ひたすら書いているうちに、肉体的限界を感じて「オレはこのままでは文筆を長くは続けられない」と悲愴に思うようになった。

 ここから本題だ。もともと私は運動する習慣がない。そして本を書くのは間違いなく肉体労働である。しかも結構な重労働で、それを続けていると筋張った体が軋んでいく。首と肩、背中と腰、さらには脚が、要するに全身が凝り固まってガチガチになる。

 私はここ7年ほど整体やマッサージ屋のお世話になりっぱなしで、しかも大抵の施術者から「これはひどい」と驚かれるというか、呆れられるくらいだ。強い施術もすべては「イタ気持ちいい」に変換されて、強さの要求も通う頻度も上がっていく一方だ。「もっと強く、もっと頻繁に」のジャンキーである。

 しかし「これは持続可能ではない」とさすがに思うようになった。このままだと自分はものを書き続けられない。筋肉が張って体が痛いし、呼吸も浅くなるので気分も悪い。心身ともに苦痛である。辛い、早く引退して老後を迎えたい、しかしその頃には体がボロボロだろう、と馬鹿みたいだが本気でそのように思っていたのだ。こういう発想は、多少は自分に酔っているのだが、それはそれで本当に困っているのである。

 というわけでなぜか、8月半ばから筋トレを始めた。市民センターのジムで、一回200円のところだ。なんか皆マッチョで、聞こえてくる会話の内容は「超回復に新理論」とか「チョコ味のプロテインは飲みやすい」とか、そんなのばかりだ。中には「Keio University」と書かれたジャージの学生がいるけれど、経済学部生でないことを祈る。必死にオールアウトしている姿を見られたくないからだ。

 そしてどうなったか。結論からいうと、ジム通いの効果はてきめんで、通い始めてから一切、整体にもマッサージにも通わなくなった。

 筋トレすると凝りが取れる、あるいは筋肉痛で凝りが分からなくなる、やがて筋肉が太くなり凝りにくくなる、凝っても自力で治せる、とかそんな感じだ。これって当たり前のことなのか、皆知っていることなのか。とにかく私はそれでうまいこといった。愛読誌もSocial Choice and WelfareからTarzanに変わった。人生観が変わったと言ってもいい。俺は加齢にあらがうのだ。たかが素人レベルの筋トレで大袈裟なことを言って恐縮だが、とにかく私の人生におけるエポックメイキングな出来事だった。 

Tarzan (ターザン) 2014年 9/25号 [雑誌]

Tarzan (ターザン) 2014年 9/25号 [雑誌]

 

 自分は多量のマンガを読む。脳内物質のバランス調整に不可欠なのだ。あだち充はもちろん大人買いしてある。あだち充を大人買いしたのは、島本和彦『アオイホノオ』の影響もある(その頃は深夜ドラマもやっていた)。そして、あだち充マンガの主人公は、必ず「走り込み」をする。理屈はよく分からんが、とにかく走り込みがすべての基本らしい。野球も水泳もボクシングも、すべてそうだ。というわけで、自分も走ることにした。せっかく筋トレしたので、使わないと何かもったいない気もする。もはや本を書くこととは一切関係ない。俺がそれを欲しているのだ。 

 誰がこんな話に関心を持ってくれるのか分かりませんが、また続きを書きます。

アオイホノオ 13 (少年サンデーコミックススペシャル)

アオイホノオ 13 (少年サンデーコミックススペシャル)

 
 

年度末

 いつもながら久しぶりに更新します。2015年に入ってからは、内閣府の経済理論研修で毎週「ミクロ経済学」の講義を担当していました。月曜朝8時半から10時までの授業です。官庁で講義を受け持つのは初めてで、最初は慣れないこともあったのですが、非常にやりがいがあり、また愉しいものでした。分量もきっちり2単位分あったので、終わってみると淋しい。7月には司法研修所でゲーム理論の講義をします。

  今日は年度末の3月31日ですが、大学で教え始めて丸10年が経つことになります。光陰矢の如しとか、少年老い易く学成り難しとか、そんなことばかり思う。そして私は、大学生に講義するのは好きな方だけれど、さすがに10年でマンネリ化してきた。大学以外のところで講義の機会を持つと、何を・何のため・誰に教えるか改めて考えるので、よいリフレッシュになります。これをもとに2015年度の慶應での講義も色々リニューアルするつもり。

 その研修と同時期に、岩波新書『多数決を疑う ――社会的選択理論とは何か』を書き上げていました。1月30日に脱稿して、2月半ばから最近までゲラと格闘していた。いまは完全に校了して発売を待つばかり。

  いつもなら校了すると、スッキリして別の本を書き始めます。だから出版する時には、販売状況は気になっても、自分の書いた内容には、意外と関心が薄れている。しかし今回はそうならない。とにかく好きに書いたので、自分で読むと面白いのだけど、他人が読んでどう思うのかよく分からない。その辺がもやもやするというか、何となく気持ちを切り替えられない。有難いことに、すでに割と多く予約をいただいています。今度、内容を紹介します。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 最近いただいた面白い本を二冊。まずは盛山和夫・浜田宏・武藤正義・瀧川裕貴(著)『社会を数理で読み解く ――不平等とジレンマの構造』(有斐閣)。ちょうど最近、ミクロ経済学の授業に不平等と社会的ジレンマをどう組み込むか考えていたので、とても参考になります。秋学期に学部ゼミの教材として読ませていただきます。ちなみに盛山先生には大昔、コンファレンスで『リベラリズムとは何か』(勁草書房)にサインをいただき感激したことがある。

社会を数理で読み解く -- 不平等とジレンマの構造

社会を数理で読み解く -- 不平等とジレンマの構造

 

  もう一つ。比例代表制だと有権者は「政党に投票する」わけだけど、私はあれが何をしているのかよく分からない。「選択肢に投票する」のは意味が分かる。「政治家に投票する」のも、まあ、その人の見識や判断力に対してということで、いちおう意味が分かる(「信託」という)。しかし「政党に投票する」となると、これは難しい。そもそも政党は人間の集団であり、そのなかで投票(社会的選択)がなされる容れ物であり、また必ずしも民主的に運営されているわけではない。そして国会で法案を審議するとして、党議拘束があると、コンドルセ陪審定理の前提条件「最終的には各自が自分の頭で考えて判断する」が満たされなくなってしまう。一体あれは何なのだ。

 社会的選択理論家にとって、政党は相当難解な対象だと思う。そんなこんなな疑問を日々持つ私に対して書かれたような本が、砂原庸介(著)『民主主義の条件』(東洋経済新報社)です。勉強になるし、自分の疑問があながち的外れでないことも分かって有難い。社会的選択理論に関心がある人にも、この本はとても面白いと思う。

民主主義の条件

民主主義の条件

 

現実逃避中

 また久しぶりの更新です。最近はずっと本を書いており、締切も編集者もないブログに手が回りませんでした。ちなみに本は、明日が締切で、いまは現実逃避の真っ最中です。

 書いている、あるいはいまこのブログでなく書いているべきなのは、岩波新書『多数決を疑う ――社会的選択理論とは何か』という本です。今春4月に公刊予定。とにかくここ9か月ほど、これにどっぷり浸かっていて、文字で「ジュディマリ」と見ると、「マジョリティ」に空目するぐらい。でもこれは多分、俺の人生の代表作なのだ。でももう文章なんか書きたくないし、本も読みたくない。読むならハマりかけの『弱虫ペダル』だけにしたい。でもこれ30巻以上出ているのね、どうしよう。

弱虫ペダル(38): 少年チャンピオン・コミックス

弱虫ペダル(38): 少年チャンピオン・コミックス

 

  あと、今週発売の「週刊 東洋経済」に「マーケットデザイン」を寄稿しました。書店やコンビニはもちろん、駅のキオスクでも売っています。ぜひ電車や新幹線の中でもご覧ください。ピケティが表紙。

週刊東洋経済 2015年 1/31 号 [雑誌]

週刊東洋経済 2015年 1/31 号 [雑誌]

 

  それと、ちくま新書『マーケットデザイン』に台湾語訳が出ました。初めて自著の外国語訳が出て嬉しいです。仲介エージェントが印税から手数料を山ほど差っ引いたこと以外には、すごく満足しています。いやいや、とにかく、世の中の色んなことに感謝しています。ありがたやー。


誠品網路書店 - 如何設計市場機制? 從學生選校、相親配對、拍賣競標, 了解最新的實用經濟學

 

マーケットデザイン: 最先端の実用的な経済学 (ちくま新書)

マーケットデザイン: 最先端の実用的な経済学 (ちくま新書)

 

  それと去年の秋に、筑摩書房さんは『創刊20周年記念 ちくま新書ブックガイド』を作成しており、私も選者として一冊、重田園江『社会契約論』を推薦しました。 

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ (ちくま新書 1039)

 

 そこで私が書いた紹介文を、ここで載せときます。

 頼むから誰かルソーの「一般意志」を説明してくれ、定義してくれ、『社会契約論』は難解きわまりないぜ、助けてくれ、と思っていたところに本書が出た。著者は、誰もそんなことはできないぜ、私もこんなに苦しいぜ、でも多分こういうことだぜと、息も絶え絶えに、しかし力強く語りきる。それは命がけの跳躍だ。棒高跳びでバーを高く飛び超えた瞬間の著者の姿が、本書には見事に焼き付けられている。読者はそれにより自らの飛び方を必ず見つけ出すはずだ。

 

日評関係(にっぴょうかんけい)

 少し遅れての紹介になります。日本評論社『経済セミナー』と『数学セミナー』の、ゲーム理論座談会に出ました。内容は、前者のほうが「社会科学寄り」です(手前味噌だが、これはなかなか面白いと思う)。あと、表紙に私の顔が出ています。会場は慶應で、本文の写真をよく見ると、木の椅子にペンマークが刻印されている。

経済セミナー 2014年 11月号 [雑誌]

経済セミナー 2014年 11月号 [雑誌]

 
数学セミナー 2014年 11月号 [雑誌]

数学セミナー 2014年 11月号 [雑誌]

 

  それと、話題沸騰の神取道宏先生の『ミクロ経済学の力』を編集部からいただきました。どうもありがとうございました。クオリティについてはもう私ごときが論評するようなものではございません。それにしても表紙のデザインが格好良いですよね。うらやましい。 

ミクロ経済学の力

ミクロ経済学の力

 

  私もいずれミクロの教科書を書こうかなあと思ってましたが、こんなん見ると、もちろんやる気が失せます。おそらく世の中には、いまミクロの教科書を執筆中の学者や、企画を進めている編集者がいらっしゃると思いますが、うーん、まことに勝手ながら、同情してしまう(具体的に誰かを念頭に置いているわけでは決してないです)。

 とりあえず私の場合、最近いただいた他社からのミクロ教科書の執筆依頼は「いや、もう最近こんなん出ましたから」とお断りしました。もともとミクロは飽和気味の市場であり、ほとぼりが冷めるまでミクロの教科書は、新たに出さないほうが無難かと感じます。なんせこの本、分量の割に格安ですし、長期的に市場を独占しそうな気配です。長年お世話になっている経セミ編集部の皆さまには、心からおめでとうございますとお祝い申し上げたい。

 それと、前回のブログで「俺、走ってるぜ!」とかっこよく書いてみた矢先に、腸脛靭帯炎(ちょうけいじんたいえん)になって、走れなくなりました。というか、自宅の階段を降りるのでさえつらい。しばらく鍼治療を中心に治癒して、安静にします。

 気軽で安価にできると思って始めたランニングですが、準備は大変だしお金がかかる(GPS時計、ウェア、靴、ジム、体のメンテナンス、走る時間の機会費用 etc)。楽しいのはいいのですが、たかが走るのに資本主義が絡むのかよ、となんかよく分からん悪態をつきたくなる。でもまあ、とにかくしばらく走れないので、やたら減っていた執筆時間がいくらか回復するはず、と期待します。

39歳になった話

 半年ぶりくらいに更新します。その間には投票について一般向けの本を書いていました。書き物をしているとどうしてもブログまで手が回りません。いまはドラフトが仕上がり改訂中です。年末に脱稿して4月に店頭に並ぶ予定で、脱稿したらまたお知らせします。

 さて、この夏に39歳になりました。いつもなら誕生日は特に気にしないのですが、今回は「いやあ、30代最後かよ」と軽くショックでした。最近だと私を「若手扱い」してくれるのは、70代の先生方くらいです。そして、そのような先生方を見ていると、70代で現役の研究者でいるというのは凄まじいことだなあと思います。私も70とまでは言わないけど、できれば長く書き続けたい。

 自分の場合、論文なら定理さえ揃えば(それに時間はかかるものの)比較的短期で一気に書けます。しかし本は文字数が多いので、どうしても長期戦になります。純粋に時間がかかるし、肉体労働として重いのです。資料の読み込みも含めて体力勝負になる。

 今回の本は書いている途中で、(利き腕の)左手がしびれはじめました。これはイカンと思いマッサージ屋に行くと、凝り固まった背中を触ったマッサージ師が「お客さん、左手しびれませんか」と言い当てて、ああ、これは本当にイカンのだと思いました。とにかくこのままだと自分は持続可能でない。

 というわけで、なぜか、ランニングを始めました。何となく、父親や義妹や、高校生の頃から尊敬する武田真治先生が走っているので、そうしました。

優雅な肉体が最高の復讐である。

優雅な肉体が最高の復讐である。

 

 そんで、夜間に川沿いを走っています。街の灯りがきれい。10kmの小さな月例大会に出てみたのですが、9月は52分、10月は51分でした。なかなか50分が切れません。陸上競技をやっていた人から見ると遅いのでしょうが、超文系人間の私としては、まあこれでオッケーです。タイムが上がると嬉しいですが、あまりそれを気にすると楽しくありません。それでもペースは知りたいので、GPS時計で日々の記録を取っています。

 それに付随して走る用の筋肉をちょこっと付けるようにしました。膝の負担を軽減したいのと、私のなかの三島由紀夫が私にそうしろと命じるからだ。もともと体がへなちょこなので、これは初めての経験で、なかなか楽しいです。来年の日経学会の春大会ごろには、きっとガチムチになっていると思います。

三島由紀夫の肉体

三島由紀夫の肉体

 

 靴は表参道にあるアシックスのランニング専門店で、足を3D計測してもらって、ランナーの店員さんに相談して選びました。ここは本当に親切かつ詳しくてよかったです。それと、ずっと26cmと思って26.5cmの靴を履いていた自分の足が、25cmだと分かりました。東京はすごいところだ。あと、ついでにハイテクな五本指ソックスを買ったら、長く走ってもマメができなくなりました。ランナーの皆さん的には当たり前なのか。

 そしてそういうことをやっている結果、書き物に費やす時間が激減しました。体の調子は良くなったのに。でも本当に、驚くほど、筆が進んでいない。1998年に大学院に入って以降で、生産性が圧倒的に低い日々を、最近は過ごしています。 まあ、人生にはこういう時期もあっていいかなあ、とは思うのですが。

メカニズムデザインと意思決定のフロンティア

  昨年度、慶應義塾で「意思決定とメカニズムデザインのフロンティア」という連続講座を開催しました。そのプロジェクトの関連書籍、『メカニズムデザインと意思決定のフロンティア』が、5月下旬に出版会から公刊されます。私が編者で、講師陣が主な執筆者。詳細は後日また紹介します。

 講座名と書名で「メカニズムデザイン」と「意思決定」の語順が逆になっているのは、カタカナの並び方や分量などを勘案してのことです。まだ製本されておらず、私の手元にもありません。 

メカニズムデザインと意思決定のフロンティア

メカニズムデザインと意思決定のフロンティア

 装幀が鮮やかでとても気に入っています。今回は「学術書だと気にしなくてよい」「美しければよい」「叶恭子さまが小脇に抱えても不自然でないように」など、私が言葉でイメージを伝えたら、デザイナーさんが素晴らしい解釈を示してくださいました。ハッピーです。

 わりと黄色っぽいのですが、やっぱ黄色は風水的に金運にいいですから。ちなみに本書は寄付講座プロジェクトの一環なので、私は印税を得ません。なので、その金運祈念はひとえに読者の皆さまのためのものです。本棚の開運アイテムとしてどうぞ。

 カラフルな方が運気が上がりますよね。こんなことも分からない奴は、美輪明宏先生の本を読むといい。昔は渋谷にジァン・ジァンという素敵な所があってだな、そこで美輪さんのステージが間近に安価で見れたのだ。私がいちばん好きな第一声は、「こんばんは、宮沢りえです」だった。

紫の履歴書

紫の履歴書

 

日経ビジネスオンライン・インタビュー4/23

 日経ビジネスオンラインにインタビューが掲載されました。マーケットデザインについて考えを喋ってます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140404/262374/?n_cid=nbpnbo_top_updt

 このインタビューは『2014~2015年版 新しい経済の教科書』(日経BPムック 日経ビジネス)の関連企画です。この本は、お世辞抜きに素晴らしい。安田さんとVarianの対談や、Milgrom、Atheyのインタビューなど、「うーん、マーケットデザイン(というか最近の経済学)は凄いなあ」と感嘆してしまう。私もちょこっとだけコメントを寄せています。拙著の紹介もある。

2014~2015年版 新しい経済の教科書 (日経BPムック 日経ビジネス)

2014~2015年版 新しい経済の教科書 (日経BPムック 日経ビジネス)

 
マーケットデザイン: 最先端の実用的な経済学 (ちくま新書)

マーケットデザイン: 最先端の実用的な経済学 (ちくま新書)

 

 あと、内容が関連した本『年収は「住むところ」で決まる』(プレジデント社)をいただきました。どうもありがとうございました。原題は『The New Geography of Jobs(雇用の新しい地理学)』なので、邦題とは印象がけっこう違います。

 うーん、この邦題はいかがなものなのか。あからさまに「年収」って、「それ、金銭尺度全体主義の普及に一役買ってるぜ!」とか言いたくなります。まあ私が書いた原稿にも「これはいかがか」と思うタイトルが付くことがあるので、あまり人のことは言えないのですが。

 本自体は面白いです。確かに、賃金と場所の関係について色々書いてあるので、看板に偽りはない。

 あと、巻末にある安田さんの解説はうまい。すいすい読めるんだけど、こういう日本語の文章をアカデミシャンが書けるようになるのは大変というか、かなりの修業がいります。「経出る」でも思いましたが、僭越ながら、文体作りへの長期間の努力を感じました。洗練されているというか、しなやかで、さすがのハイスキルです。

 私も最近、新しい本を書き始めたのですが、文体が定まらず、なかなかというか、全く前に進めません。書いては直して捨てるので、なんかもう、もったいないし、いやになる。

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学

年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学

  • 作者: エンリコ・モレッティ,安田洋祐(解説),池村千秋
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2014/04/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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