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憲法学者の多数決と陪審定理(メモ)

  コンドルセ陪審定理は、多数決の「正しい使い方」を教えてくれる。コンドルセは、ルソーの影響を強く受けてそれを着想。人民集会で「ある法案が一般意志に適うか否か」を多数決で判定。それがうまく出来るため(=陪審定理の前提条件が成立し、多数決がうまく機能するため)には

① 〔一般性〕そもそも、その法案の対象が、一般利益についてのものであること

② 〔独立性〕人々は十分な情報を持つ。討議はオッケーだが、他人の意見に流されてはいけない。各自は最終的には自分の頭でうんうん考えてイエス・ノーを判断すること

③ 〔コイントスよりは賢い〕1人の人間の理性的な判断は、コイントスよりは確度が高い

が必要。①は問題の設定として必須。②は完全にではなくとも相当程度成り立つ必要がある。③は平均的にコイントスより賢ければよい。*1

 こういう「多数決の正しい使い方」を規範として参照し、現実の多数決の使われ方のどこがまずいか指摘するのが重要である。例えば②から、国会での多数決での、党議拘束が非常にまずい(各自の判断の独立性を認めないから)と指摘できる。

  安保法案の合憲・意見は誰が判断できるか。まずこの法案は国防に関わるもので、いちおう①は満たすと考えてよいのではないか。私は合憲か違憲かは自分の知識では分からない、判断できない*2。しかし「長谷部先生が違憲と言ってるから、違憲なんだろうな」と考えている。これは私が自分の頭で考えていることにならないので、②が成り立たないし、③も理性的な判断ができる能力に欠けているので成り立たない。だから審査員として不適格。②と③を満たせるのは、憲法学者くらいではなかろうか*3

 以前「憲法学者の90%が安保法案を違憲と判断」「いや、数の問題ではない」といった議論があったが、陪審定理の観点からは、ここは憲法学者たちの多数決で判断するのがよい(正しい判断に至る確率が高い)。

 

 多数決の使用を正当化する条件はかくも厳しい。多数決はもちろん間違えうるし(①から③を全て満たしたにせよ)、そもそも人間が多数決をうまく使えるとは限らない(①から③を全て近似的にでも満たせるとは限らない)。だから間違えても過度に酷いことが起こらないようにする、立憲主義的抑制が大事ということになる。綺麗ごとでも何でもなく、制度設計上の必然性である。 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

*1:この辺りの議論はLadha, K. K. (1992) "The Condorcet jury theorem, free speech, and correlated votes" American Journal of Political Scienceが比較的読みやすい。

*2:しかし憲法は、一般国民でもある程度勉強したらきちんと読める程度の読み方しか許容しない、となって欲しい・そうあるべきではないかと私は思う。実務的になかなかそうはいかないのかもですが。

*3:これは憲法学者に判断権力を与えよ、と主張しているのではない。憲法学者の権威を認め尊重したい、という意味である。むろん「憲法学者」の定義は一義ではなかろうし、内閣法制局のメンバーも入れろとかありそうだが。しかし一般の憲法学者のほうが、政治権力とは遠いところにいるので、その分、独立的ではあるだろう。