朝日新聞11/28オピニオン

 私ごときが忙しいと言うのはおこがましい、あるいは仕事があって感謝とも思うのだが、なんか忙しい。もう一カ月半くらい、ほとんどロードバイクに乗っていない。さらに11月はランも10kmを二回しか走っていない。筋トレだけはコツコツ続けていたが、ついに昨日、今年初めて「連続7日ジムに行けず」をやってしまった。

 自動車絶望工場ふうにいうと、工員ではなく、ベルトコンベアの上に乗せられた組み立て中の車の気分であり、移動しながら、その場その場で作業されるまま、ただ時間だけが進行している感じだ。

 勉強時間が取りにくいので、電車のなかが貴重な読書時間である(なので自転車には乗れない)。いずれ真面目にコメントを書きたいのだが、最近の実に勉強になる本としては、とくに砂原庸介・稗田健志・多湖淳『政治学の第一歩』(有斐閣)と待鳥聡史『代議制民主主義』(中央公論新社)を、満員電車に揺られながら、赤線を引きつつ熱心に読んでいる。

 自分の「政党」「代議制民主主義」への理解が浅いと思わされることが多く、これを改善するのは私の中短期的な課題である。たぶん経済学における企業と、政治学における政党は似たところがあると思うのだが(少なくとも両者は取引費用を節約する組織である)、まだ勉強中でございます。

政治学の第一歩 (有斐閣ストゥディア)

政治学の第一歩 (有斐閣ストゥディア)

 
代議制民主主義 - 「民意」と「政治家」を問い直す (中公新書)

代議制民主主義 - 「民意」と「政治家」を問い直す (中公新書)

 

  さて、自分が書くべき原稿がぜんぜん進んでいない。だから編集者氏に申し訳なくて、最近はブログを更新することができなかった。いや、だって、原稿が仕上がってこないのにそいつのブログが更新されてたら、やっぱちょっと腹が立つじゃないですか。

 忙しかった主な理由に、一橋大学政策フォーラムでの招待講演、公共選択学会プレナリー・トーク等々の準備があった。前者は宇野重規さん(東大社研)、後者は砂原庸介さん(阪大法)がお相手を務めてくださった。本当にどうもありがとうございました。アナウンスした通り、それらで使ったスライドを以下にアップしておきます。 

http://www.geocities.jp/toyotaka_sakai/2015Nov3rdweek4.pdf

 さて本題ですが、本日11月28日(土)の朝日新聞朝刊オピニオン面に、「一票の格差」について(写真付き)インタビューが掲載されています。11月25日の最高裁大法廷でのグレーな判断「違憲状態」ですが、より積極的な司法判断(違憲か合憲か)が望ましかった、また死票という「非死票との無限の格差」にこそ目を向けるべきだ、と話しています。よろしければどうぞご覧くださいませ。

月例横浜10km(10月)

 横浜の月例10kmランに参加してきた。今回は大失態で、10分以上遅刻してしまった。自宅から鶴見川の最寄りの土手まで行って、そこから新横浜あたりまで上流へと8kmほどロードを漕いだら会場に着くのだが、なぜか下流へ進んでしまったのだ。間抜けすぎる。しかし鶴見川は途中で川の合流が複雑にあって三叉路みたいで、土手にいるとどっちがどっちか分からなくなることがあるのだ。自分だけだろうか。

 というわけで公式記録は気にしないで、GPS時計で自己満足することにする。そもそも私のラン自体が自己満で、しかも鶴見川まで来るとはその度合いが高いのだ。タイムだって自己計測で心を満たせばよい。

 しかしこの遅刻が実はとてもよかった。なんとけっこうな人助けになったのだ。それは後述するとして、今回の目標は10kmを50分切りだ。キロ5分で10km。たぶんきっちりタイムの管理をすれば、それはできる。そして、できた。

  •   1km 4:39
  •   2km 4:53
  •   3km 4:58
  •   4km 4:55
  •   5km 5:03
  •   6km 5:00
  •   7km 4:56
  •   8km 5:00
  •   9km 5:05
  • 10km 5:00
  •  ロス  0:16
  •  合計 49:45(10.06km)

 超ご機嫌である。

 タイムを気にして走るのは、楽しいかと言われれば、あんまり楽しくない。一定の速度をキープするので、時間が経つにつれ段々しんどくなってくる。なのに何故そんなことをするのかと言えば、やはり楽しいからだ。つくづく楽しみや悦びは、快楽とは相当異なる概念だと思う。

 この日は10月なのに、かなり気温が上がって、走りながら暑いと思った。前回のハーフマラソンと同様、今回も「男梅グミ」は重宝した。塩分の補給に最適である。暑くてぼうっとしてきたときに、これを口にすると、一気にしゃっきりする。飴と違って口のなかでゴロゴロしない。地球上すべてのランナーに「男梅グミ」を強く勧めたい。 

ノーベル 男梅グミ 38g×6個

ノーベル 男梅グミ 38g×6個

 

 私は10kmの部に出たので、それが終わったら帰宅である。だがまだコースでは20kmの部の人たちが走っている。 そして私の帰り道は、そのコースなのだ(貸し切りではない)。だから20kmランナーの邪魔にならないよう、道のはしっこをそろそろと自転車を漕いでいた。記録更新でごきげんなので、気持ちよくヒャッハーと唄を歌ったりする。

 そのときである。すれ違った20kmランナーのひとりが、「この先に人が倒れてるよ」と私に告げ、走り去っていったのだ。んんん? それは言葉通り受け取れば、人が倒れているという事実の表明に過ぎない。だが、それをわざわざ私に告げるとは、倒れている人を救えという行為の要請なのであろうか。

 と思って先に進むと、たしかにランナーが仰向けに倒れていた。すでに介護している人がいるが、私も自転車を降り、それに加わる。体温は上がってないので、熱中症ではなさそう。意識はある。

 まずは手持ちのスポーツ系ジェルを、倒れている人の口に(了解のうえ)入れた。しかし、あまり効いてない気がする。たぶん効率的に塩分を取る必要があるのだ。そこで続けて塩気の強い、男梅グミをお口に投与した。ひとつ、またひとつ。どうだ。

 「どうですか」と、彼の頭を膝に乗せた、別の男性ランナーが尋ねる。すると彼は目を閉じたま小声を振り絞って、「いまの、意識戻る」と喋ったのだ。男梅グミで、意識が戻る。むろん彼の意識はもともとあるので、正確には意識の状態が向上するのであろう。秋晴れの河川敷での、思いがけぬ出来事。私は彼の様子を確かめながら、その小さく開いた口に、男梅グミをまた運んでゆく。市民ランナー同士の連帯を通じた救命作業だが、これはこれで、ちょっとしたBL的光景ではなかろうか。

 やはり塩分不足で脱水症状だったのか、男梅グミのおかげで、少しずつ回復のご様子。うーん、男梅グミすごい! そのあいだに他のランナーが、ドリンクを買ってきてくれたり、大会運営の人を連れてきてくれたりした。やがて本人は立ち上がれるようになり、付き添いの方もいらして一件落着。いやあ最初はどうなるかと思ったが本当に良かった。

 私が遅刻しなければ、このタイミングでここに居合わせなかったのは確実なので、これは結果的に遅刻が大正解ということだ。「やはり俺は持ってるなあ」と思いながら、いっそうご機嫌でロードを漕ぎ家路に着いたのであった。

大井ハーフ21km(10月)

 品川区の大井にある人工島の陸上競技場で開かれたハーフマラソンを走ってきた。競技場のトラックと外周を走るコースで、1周3kmを7周(プラス0.975m)するのだ。いささか殺風景な場所にあるコースで、カーブも多く新記録に向いているわけではない。しかしここは私がはじめてハーフマラソンを走ったコースで、何となく気に入っているのだ。会場へはロードを漕いで15km、ぎりぎり間に合った。

 5月、7月に続いて、これで今年三回目のハーフマラソンだ。本来なら9月に多摩川沿いの大会を走る予定だったのだが、記録的豪雨で河川敷が浸水、大会中止になってしまった。

 目標は2時間切り(サブ2)である。先週10kmが50:50だったので、21kmを2時間はできるはずだ。私もようやくその辺りの具合が分かるようになってきた。

 キロ5分30秒でイーブンペースを目指す。それだと計算上、21kmに1:55:30かかる。しかしそれだけでは済まない。まず、端数の0.975mに30秒かかる。そして21kmの直線を走るわけではないので、斜めのロスが400m生じるとして、それに2分。トイレに一度は行くだろうから、それに1分30秒。これでトータル1:59:30、ギリギリ2時間を切れる。

 キロ5分30秒だと、一周3kmを16:30で走る予定になる。まずは前半の3周の状況。

  • 1周目 16:38 この周は0.975m長いので、予定(17:00)より早い
  • 2周目 15:57 快調
  • 3週目 15:58 快調

涼しくて気候もいいし順調である。ここまでキロ5分20秒ペースで来れている。次回の4周目のおわりに、トイレに行くことを決める。F1のピットインみたいな感覚だ。

  • 4週目 17:41 トイレで1分30秒くらい使った。ランのペースは快調

 この時点で、2時間切りが可能と確信した。脚も大丈夫。プランを「余力を残してケガせずにゴール」と変更する。ここから先はキロ5分40秒、一周3kmを17:00に遅らせよう。余力を残すとは、ゴール後も「まだ当分走り続けられる」という状態にすることだ。今シーズンはフルマラソンに出てみたいが、ハーフ後に「もう走れない」というようでは問題外であろう。結局、後半は

  • 5週目 16:39 もうちょっと遅くすべし
  • 6週目 16:52 脚が重くなってきた。遅くしようと思わなくともこのタイム
  • 7週目 17:04 うーん脚が重くなってきたな。予定より4秒遅い

であった。この辺りはもっとタイムを上げられたはずだが、それは狙わなかった。2時間さえ超せばいいのだ。最終的に

  • 合計 1:56:49

で念願の2時間切り達成。嬉しい。

 ゴール後、余力の感覚は「あと10kmをキロ6分で走れるかな」であった。たぶんだが、あと10kmくらいなら、1時間くらいで走れる気がする。つまり31.0975kmを3時間くらいで走るのは、大丈夫な気がする。あくまで気がするだけですが。しかしフルマラソンは、その後にさらに11.0975kmあるのか。それはもはや私の想像を絶する世界で、さっぱり分からない。

 レース後には、内転筋に軽い筋肉痛、股関節の外側に軽い違和感が出た。これはおそらく、この辺の鍛え方が弱いのであろう。10kmだと出ないダメージが、21kmになると出てくる。これらの箇所を重点的に筋トレ・ストレッチしないと、フルは走れないだろうなあと思う。

 今回はラン中に「男梅グミ」をよく食べた。携帯しやすく、食べやすく、十分な量の塩分がとれる。それに口にすると意識がしゃっきりする。この日は午前中のラン後に仕事に行って、それから夜は自転車屋にメンテに行って、計50kmくらい漕いで帰宅した。この季節は日が暮れるのが早くて、運転がちょっとこわくなってきた。自転車のライトをもっと明るいハロゲンライトに付け替えるべきかもしれない。 

ノーベル 男梅グミ 38g×6個

ノーベル 男梅グミ 38g×6個

 

 

 

 

 

 

月例川崎10km(9月)

 9月の月例川崎10kmランで、記録が50:50だった。走歴1年2カ月、初の50分台、私にとっては快挙である。

 私は昨年のこの大会で腸脛靭帯炎になって、三カ月以上まともに歩けなくなった。いま思うと結構なケガである。そのとき無理やり走ったタイムが51:27だ。われながら愚かだが、治るケガでよかったとも今は思う。だからこのタイムを「ケガなしで」更新するのが、回復して以来、叶いそうにない大目標であった。そして回復後のタイムは55分前後をさまよっていた。

 その回の目標は53分切りだったけれど、最初キロ5分で走っているうちに、あれ、このスピードが維持できそうだという感じで走り続けられて、まさかの50分台が実現できた。ものすごく意外であった。

 これまでランで「想定より上手くいく」を経験したことがない。だいたい想定通りの現実的な結果が出るか、それより上手くいかないかのどっちかである。それが上手くいったのだ。

 理由はおそらく、スピードを出す練習を採り入れたことだ。これまでの私にとってキロ5分は非常に速く、通常の目安はキロ5分30秒から5分40秒だったのだ。しかしそのスピードで練習してもタイムはなかなか上がらない。どうしたものかと思っていた。

 そんななか9月に実家に帰ったとき、たまたま自分が小学六年生のときの、1500m大会の記録証を見付けた。タイムは約6分、つまりキロ4分である。意外に速い。そしてそれを見てなんとなく、スピードを上げてみるかなあと思ったのだ。ちなみにいま現在、私は1500mを6分では走れないと思う(ケガしたら嫌なので挑戦しない)。

  練習の強度を上げると故障の確率が高まるので、一度痛い思いをした私は、それまでスピードアップに前向きではなかった。しかしハーフマラソンも二度出て無故障だったし、脚の筋トレも成果が出てきている様子だし、多少は強度を上げても大丈夫だろうと思ったのだ。

 それとソニーのウォークマンが壊れたのをきっかけに、走るときに音楽を聴くのをやめた。もともと聴かなくてもいいんじゃないかと思ってはいたのだ。聴覚以外の五感が下がって、フォームの維持とペースの管理には、明らかにマイナスなのだ。これは奏功して、自分のGPS時計の計測だと、そのときの10kmは順に

  •   1km 4:58
  •   2km 5:00
  •   3km 5:08
  •   4km 5:11
  •   5km 5:08
  •   6km 5:06
  •   7km 5:03
  •   8km 5:00
  •   9km 5:01
  • 10km 4:49
  •   ロス 0:25
  •   合計 50:49(10.1km)

であった。かなり上手くイーブンペースになっている。イーブンペースが大事とは聞くが、今回それをはじめて真面目に実行したのだ。

 それと、コース取りに気を付けた。これまでは10km走だと、斜めに走行するなどで200mくらいロスが発生し、合計10.2kmくらい走っていたが、今回はロスを100mに抑えられた。タイムにすると30秒短縮できたことになる。それにしても、意識すると抑えられるものなのだなあと感心する。

 というわけで、ずいぶんレースで走るのが上手くなったように思う。もはや初心者ではない気がする。来週のハーフマラソンも2時間は切れるのではないか。そしてこのとき、はじめて自分のなかに、フルマラソンを走ってみたいという欲望が生まれた。

Number Do(ナンバー・ドゥ)vol.23ランの未来学。 (Sports Graphic Number PLUS)

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パン食い競争(後編)

 前回「パン食い競争(前編)」からの続きです。どうか前編から一字一句逃さず丁寧に読んでください。

 

 パン食い競争参加者の集合場所には、父母が200人くらい集まっている。私たちは適当に10列に並んで、そのなかの10人で競うことになる。父親が7割、母親が3割くらいだろうか。いったい本気でパン食い競争に臨んでいる奴は俺以外にいるのか。

 まず妊婦さんは、たぶん本気でパン食い競争には挑まないと思う。乳児を抱っこしてるお父さんも、せいぜい早歩きが関の山だろう。サンダル履きの人は、そもそも走る気ないだろう。このへんの連中は論外だ。

 他の人、とくに男性の靴を見てみる。ナイキが一番多いが、どれもただのスニーカーっぽい。アディダスもいるけど、アディゼロとかじゃない。半パンの人は膝下の脚の筋肉が見えるわけだが、「脚ができてる」人はどうも見当たらない。太っている人もたぶん速くは走らないと思う。

 とにかく、闘志を燃やしてるのは、一見したところ自分だけっぽい。いやあ僕は大人げないのかあ、馬鹿なのかなあと思わなくもない。しかしこんなに、親が、子供の前でいい格好できるチャンスは、なかなかないように思う。勝ちに行く意志およびその発露としての行為こそが問われているのではないか。

 自分の組の順番になるまで、パンをくわえるイメトレをして立って待つ。パンまで急加速、急停止してパンをくわえ取り、猛ダッシュでゴールする成功のイメージだ。ビー・ポジティブ。スタートラインで利き足の左を前に置き、大地を踏みしめる。大袈裟ですまない。

 自分の組の順番が来た。バンとピストルの音が鳴る。かすかに火薬のにおい。猛ダッシュでパンまで疾走。そのあたりの記憶がない。パンを一発目でくわえるのに成功して全速力で駆け抜けると、目の前にゴールのテープがあった。そこを一番で走り切るときに、思わず両手をあげて喜んでしまった。ヒャッハー、すごい多幸感だ。本に重版がかかったときより嬉しい。

 たぶん走りのフォームが良かったはずだ。コースを出て戻るときに、子供の元担任の先生が「すごかったです!」と言ってくれた。これは褒めてくれているのだろうか。何がどうすごかったのか細かく説明してほしいが、私はパンをくわえたままなので喋れないし、黙って満面の笑みでおじぎをしといた。ちなみにパンは、私が子供の頃から好きな、ヤマザキの「いちごジャムパン」だ。

ヤマザキ ジャムパン 3個からご注文ください

ヤマザキ ジャムパン 3個からご注文ください

 

 子供から「おとうさん、いちばんだったね!」と、たいそう褒められた。子供たちよ父が誇らしいか、私も今日のことを誇りに思うよ、な気分である。今後、私は今日の話を定期的に子供たちにリマインドして、一生の記憶に残させようと思う。

 私以外に一番ではしゃいでいる大人がいるかといえば、意外といた。ゴール前で狂喜して変な一回転してゴールするお父さんとか、ウサギのように駆け抜けガッツポーズする先生とか。前者は一回転がタイムロスでいただけないと思ったが、後者の走りは芸術的であった。

 帰り際に、子供の現担任の先生から「かっこよかったです!」と言ってもらえた。そうか、かっこよかったか、フォームならよかっただろうが、と思う。滑稽ではなかったかとも思うが、基本的にそういうのは自意識過剰であろう。

 10月のわりに暑い日で、気温は28度あった。二人の子供が通う・通ったこの幼稚園の運動会も今年で5年目、最後である。そんな感慨とせつなさを胸に抱きながら、あんまり暑いので、帰宅途中にコンビニでアイスクリームを買って家路に着いた。

パン食い競争(前編)

 一年前、子供の幼稚園の運動会でひとつのことを心に誓った。来年こそパン食い競争で一等賞を獲るのだと。すなわち私は今日のパン食い競争で勝利を収めてみせねばならない。

 今日は子供の幼稚園の運動会だった。早起きして家族より先に会場に行って場所取りをして、パン食い競争へエントリーした。快晴の朝だ。足元は、靴下は足王で、靴はアシックスGT 2000 NY。いずれもラン用で、子供の運動会にお父さんが履いていくためのものではない。 ところで「足王」は「ソッキング」と読む。いいセンスだ。

 パン食い競争は、なんせパン食いというくらいだから、単なる短距離走ではない。レースの途中で、紐にぶら下がっているパンを口でくわえ取る必要がある。誰が発明したのか知らないが、遊戯性と競技性と馬鹿馬鹿しさが見事にブレンドされた、すごい種目だと思う。2020年の東京オリンピックでも取り入れてほしい。

 パン食い競争で一番重要なのは、一発でパンを捕らえることだと思う。一発目を外すと、それでパンが揺れ始めて、二発目で捕らえるのが難しくなるのだ。あれは気持ちも焦るもので、いきおい手を使ってしまう大人も散見されるが、子供の教育上よろしくない気がする。

 ではどうすれば一発でパンを捕らえられるか。私は一度きちんと停まることだと思う。いったん停止して、大きく口を開けてパンをくわえるのは、簡単である。だがパンを、速度を落とさないまま運よく捕らえようとするから失敗するのだ。これは私が昨年の自分の失敗から学んだことである。

 パン食い競争は、だいたい(1)15m走る、(2)パン食い、(3)15m走る、のような構成であろう。私の作戦「(2)で一回きちんと停まる」のデメリットは、(1)の終盤と、(3)の序盤が遅くなることだ。

 しかし(1)の終盤といっても、そもそも超短距離なので(2)の急停止はできるはずだ。肝心なのは(2)のあと、(3)を急加速することではないか。

 パン食い競争とはいかなるゲームであるのか、考えてゆかねばなるまい。まずそれは、ゴールがごく間近に見える超短距離である。だから走ったままパンをトンビのようにさらいたくなる。特に妻子が見ている前だとその誘因は高まる。だがそれらは全て罠である。間近なゴールも、妻子も、いい格好したい自分の心も罠だ。ここは大人らしく落ち着いて、停止してパンをくわえるべきだ。パン食い競争は、精神的には、それに気付き疾走の誘惑に打ち勝つゲームである。これに弱い人間はパンを一発目で捕らえられない。

 そして肉体的には、急加速と急停止を行うゲームである。そのためには、普段からの鍛錬はもちろん、きちんとしたソックスとシューズが必須である。というわけで、私は先述の装備にしたのであった。服装は全身アシックスにしたいところだが、TPOをわきまえて普通の格好にした。もう40歳だし社会化されているのだ。半パンとボーダーのTシャツを着た。

 パン食い競争は、午前のスケジュールの終盤あたりにある。11時を過ぎたころ、参加者に呼び出しのアナウンスがなされ、私は集合場所へと向かった。もちろん全身のストレッチは済ませてある。こんなに真剣にパン食い競争に臨んでいるのは私だけなのだろうか、と思いながら周りの参加者を眺めてみると、うん、私だけっぽい。

(以下、後編に続く)

ニュースサイト・オプエド

 9月29日(火)にジャーナリスト上杉隆さんのニュースサイト・オプエドに出演してきました。安保法制や代表民主制の問題点について、色々コメントしています。あれは多数決の強行採決が問題だとかいう問題ではない(私は、国会でのいわゆる強行採決自体は、問題視しない)。そんな高次の問題ではなく、そもそも多数決にかけてよい対象ではない、という話をしています。「できる」「していい」の区別を議論の骨子に据えています。

 生放送なので大丈夫かな?とちょっと思っていたのですが、それなりにまともに喋べれた気がします。結構べらべら好きなことを喋っている。有料放送ではありますが、ご関心のある方は、ご覧いただけますと幸いです。

 上杉さんからはお土産に、最近出たばかりのご高著『悪いのは誰だ!新国立競技場』(扶桑社新書)をいただきました。この件に関する政治過程というか、プレイヤーの綱引きや、意思決定過程の問題(責任所在の不明性など)を、つぶさに検証していらっしゃいます。 

悪いのは誰だ!  新国立競技場 (扶桑社新書)

悪いのは誰だ! 新国立競技場 (扶桑社新書)

 

憲法学者の多数決と陪審定理(メモ)

  コンドルセ陪審定理は、多数決の「正しい使い方」を教えてくれる。コンドルセは、ルソーの影響を強く受けてそれを着想。人民集会で「ある法案が一般意志に適うか否か」を多数決で判定。それがうまく出来るため(=陪審定理の前提条件が成立し、多数決がうまく機能するため)には

① 〔一般性〕そもそも、その法案の対象が、一般利益についてのものであること

② 〔独立性〕人々は十分な情報を持つ。討議はオッケーだが、他人の意見に流されてはいけない。各自は最終的には自分の頭でうんうん考えてイエス・ノーを判断すること

③ 〔コイントスよりは賢い〕1人の人間の理性的な判断は、コイントスよりは確度が高い

が必要。①は問題の設定として必須。②は完全にではなくとも相当程度成り立つ必要がある。③は平均的にコイントスより賢ければよい。*1

 こういう「多数決の正しい使い方」を規範として参照し、現実の多数決の使われ方のどこがまずいか指摘するのが重要である。例えば②から、国会での多数決での、党議拘束が非常にまずい(各自の判断の独立性を認めないから)と指摘できる。

  安保法案の合憲・意見は誰が判断できるか。まずこの法案は国防に関わるもので、いちおう①は満たすと考えてよいのではないか。私は合憲か違憲かは自分の知識では分からない、判断できない*2。しかし「長谷部先生が違憲と言ってるから、違憲なんだろうな」と考えている。これは私が自分の頭で考えていることにならないので、②が成り立たないし、③も理性的な判断ができる能力に欠けているので成り立たない。だから審査員として不適格。②と③を満たせるのは、憲法学者くらいではなかろうか*3

 以前「憲法学者の90%が安保法案を違憲と判断」「いや、数の問題ではない」といった議論があったが、陪審定理の観点からは、ここは憲法学者たちの多数決で判断するのがよい(正しい判断に至る確率が高い)。

 

 多数決の使用を正当化する条件はかくも厳しい。多数決はもちろん間違えうるし(①から③を全て満たしたにせよ)、そもそも人間が多数決をうまく使えるとは限らない(①から③を全て近似的にでも満たせるとは限らない)。だから間違えても過度に酷いことが起こらないようにする、立憲主義的抑制が大事ということになる。綺麗ごとでも何でもなく、制度設計上の必然性である。 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

*1:この辺りの議論はLadha, K. K. (1992) "The Condorcet jury theorem, free speech, and correlated votes" American Journal of Political Scienceが比較的読みやすい。

*2:しかし憲法は、一般国民でもある程度勉強したらきちんと読める程度の読み方しか許容しない、となって欲しい・そうあるべきではないかと私は思う。実務的になかなかそうはいかないのかもですが。

*3:これは憲法学者に判断権力を与えよ、と主張しているのではない。憲法学者の権威を認め尊重したい、という意味である。むろん「憲法学者」の定義は一義ではなかろうし、内閣法制局のメンバーも入れろとかありそうだが。しかし一般の憲法学者のほうが、政治権力とは遠いところにいるので、その分、独立的ではあるだろう。

8月の雑記

 8月の有酸素運動は控えめであった。たんに夏が暑くて、ランもバイクもする気になれなかったからだ。それでもたまに自転車(スペシャのアレー・コンプ)に乗って、60km程度のプチ遠出をしては、帰りにスパ銭に寄ってのんびりするのが楽しかった。最近はたまに安全な平地で「時速45kmを3分間」走る。あるるるる!

 8月半ばには「よこはま月例ラン」に初参加した。これは鶴見川沿いを走る、市民ラン大会だ。これに参加するためには、自転車をけっこう漕いで行かねばならない。走る前に脚を使いたくないので、のんびり鶴見川沿いを進んで会場に向かう。

 暑いので10km走は中止、5kmに短縮された。予想通りだがちょっと残念。代わりに先に3kmのほうに出て、そのゴール後に短縮された5kmに出場した(色んな距離が時間をずらしてある)。暑いので、目標は「熱中症にならないこと」。塩飴をなめ・給水所で水分を採り・頭から水をかぶって、無理せず両方ともキロ5分30秒ペースで走った。計8kmだが、炎天下なのでもうこれで十分。

 多摩川沿いと鶴見川沿いだと、前者のほうが道幅が広いし、色んなスペースにゆとりがある。多摩川は河川敷が充実しているのが大きなアドバンテージなのだろう(鶴見川に河川敷はない)。それでも、やはり鶴見川は鶴見川の空気がよかった。たまに出よう。

 盆明けから涼しくなってきて、また少しずつ走る練習を再開している。今日は10kmを53分ジャストで走った。自分にしてはよいタイム。筋力強化が奏功している気がする。いまでもへなちょこランナーだが、一年前と比べると、けっこう上達した。

 ソニーのラン用ウォークマンは壊れてしまった。手荒く扱っていたからだろうか。ああ、ちょっとだけソニーに文句が言いたい気がするけど、家内の友人の旦那さんがソニー勤務なのでやらない。じゅうぶん元は取ったので、似たものを買い直します。

 10kmくらいだと音楽がなくてもよいけど、ハーフだと長いからほしい。しかし音楽を聴きながら走ると、聴覚以外の五感がにぶり鈍感になるので、聴かないほうがよいとも思う。それに、鳥のさえずりや虫の声、風の音や人の息遣いを耳にして走るのは、なかなか素敵なのだ。

 どうでもいい話をする(すでにここはどうでもいい話だらけですが)。私はいつか、論文「弱虫ペダルで自転車に関心を持った入門者は、クロスバイクとロードバイクのどちらを買うべきか」と「自転車マンガ案内」を書きたい。とくに前者は重要なテーマと思うのだ。しかしなかなかそれに時間を割けない。

 あと、関係ないけど、最近『ボールルームへようこそ』と『ホリミヤ』を全部読んだ(いずれも続刊中)。前者は社交ダンス少年マンガで、後者は「青春微炭酸系」マンガ(なんだそれ)である。両方ともすごく面白い。しかし私は自分が社交ダンスをやろうとは思わないし、青春微炭酸なお年ごろでもない。代わりにヨガをやってみたいのだが、これはどうなのだろうか。

ボールルームへようこそ(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

ボールルームへようこそ(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

 
ホリミヤ(1) (Gファンタジーコミックス)

ホリミヤ(1) (Gファンタジーコミックス)

  

書評やインタビューなど

 前回のエントリで「8月27日が締切」と言っていた岩波『科学』7500字ですが、その後、よく見たら今日(8月31日)が締切でした。なのでさっき書き直して提出しました。十分な字数をいただいたので、「コンドルセ陪審定理」(Condorcet Jury Theorem)に基づき、多数決で決めてよいこと・ダメなこと、党議拘束への批判などを論じています。確率がちょこっと出てくるので、読みやすいのか少し心配ではあります。

 同時に日経「経済教室」3000字を三年ぶりに書いています。昨日まで大学合同サマーワークショップに出ていて(今年は慶應が幹事校)、そこへ行き来する特急「踊り子」のなかで2200字まで草稿を書きました。最近、書くのが早くなった気がしますが、質的向上がなされているのか、よく分かりません。取材を受けるときメモ書きを多く作成するのですが、それが準備になっているのだとは思います。

 明日(9月1日)の東京新聞(特集記事27面)に、安保法制に関するコメントが出ます。よろしければご覧ください。これは手前味噌なのですが、民主主義を軸にするより、多数決を軸にするほうが、案外と政治的決定の正当・不当は語りやすいのではと思います。民主主義は理念で、多数決は制度で、制度のほうが「正しい使い方」の話がしやすいのではないか。「正しさ」に規範理論を組み込むこともできるし。まあこれは、あくまで私の雑感。

 それと、市販されていませんが、先月の週刊『教育資料』の「自著を語る」欄にインタビュー記事が掲載されました。教育系の業界紙です。校長インタビュー、法律相談、メンタルケアなど、完全に(小中高)教育者向けなのですが、こういう特化した雑誌は、それはそれで面白いです。『経済セミナー』も、もしかしたらこういう路線もアリなのでは、なんて思ったりする。「経済学部長訪問」とか「連載 わたしと官庁」とか。

 雑誌『ケトル』VOL.26で、米光一成さんから書評を頂きました。どうもありがとうございました。この書評じたいが一つの作品になっていて、実に「読ませる」のですよね。うまいなあ、と感心します。私も本屋に行って『多数決を疑う』を買いたくなる。私は書評を書くのがどうも苦手で、それ自体の作品性を持たせられない。訓練でできるようになるのか、よく分かりません。『ケトル』(や『東京人』)のようなライフスタイル系雑誌に載せていただけると、なんか「俺イケてる」的な嬉しさがあります。 

ケトル VOL.26

ケトル VOL.26

  • 作者: 工藤夕貴,Megu(Negicco ) ,武田砂鉄,河?直美,伊藤弘,南馬越一義,岸勇希,市川紗椰,西田善太
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2015/08/11
  • メディア: 雑誌
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東京人 2015年 08 月号 [雑誌]

東京人 2015年 08 月号 [雑誌]

 

 去る8月8日に東京MXテレビ「淳と隆の週刊リテラシー」にVTR出演しました。メールで出演依頼をいただいた4時間後くらいに、研究室からスタジオに直行して収録しました。普段着のボーダーTシャツに短パンだったので、先方は「ワイシャツを買ってきましょうか」と提案してくださったのですが、「アニエス ベーだしよいのでは」と言うと、最終的にそれでオッケーになりました。岡崎京子世代なのです。腰から下は映りませんでした。

 ちなみに僕のフランス人の共同研究者Olivierくん(ドバイ在住)は、気を遣う奴なので、agnes b をわざわざ英語読みして「アグネス ビー」と言ってくれます。こいつこそ真のグローバル人材なのだろうか。しかしフランス人としてそれでいいのか、それとも彼の意識は国民国家の枠などに囚われていないのか、よく分かりません。

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

  

二度目の3km

前回「一度目の3km」からの続き:

 

 本日二度目の3km走。スタート地点にはランナーが集まっている。暑い暑いという声が周囲から聞こえる。ではなぜ走るのか、おそらく彼らの多くは答えられまい。少なくとも私はそうだ。理由などない。何か目的があって走るのではなく、人生行きがかり上、結果として炎天下のなかそこに立っているからだ。こうして立ちあわせた人々と運命性さえ感じるぜ。

 後ろにいるベテランランナーっぽい女性が「手が痺れる」という。その仲間の男性が「熱中症の初期症状だ。走るのをやめた方がいい」という。もちろん彼女は「走るわよ」という。「いや、走るなよ」「いいや走る」「じゃあ、ゆっくりにしろ」「ゆっくり走るわよ」「ゆっくり走るのも練習なんだからな」 いったい何の練習だ。彼女の無事を祈りつつ、スタート。

 一度目は真剣に走ったので、二度目はのんびり走ることにした。心は「自然を感じようモード」だ。光る水面、繁る青葉、輝く太陽。美しい夏だ。ろくにタイムも見ないで3km走った。GPS時計の記録を見てみると、だいたい17分。それにしても暑い。汗が止まらないし、体温が高い。

 冷水を飲んで、塩飴をなめた。それでも体が熱いので、かき氷を買って食べた。サマーバケーションを表現すべく、オレンジとハワイブルーのシロップを半分ずつかけた。太陽が海に溶け合う太平洋を一杯のかき氷に表してみたわけだ。俺は観念で生きている。だが物理的実在でもあって、かき氷のおかげで身体の内側の熱さがやわらいできた。それから競技場の水道に向かい、首の後ろから冷たい水をかぶった。気持ちいい。

 それから自転車まで歩いた。今日はロードバイクで来たのだ。Specialized(スペシャライズド)というメーカーの、 Allez Comp(アレー・コンプ)という質実剛健なマシンに乗っている。車道を軽く流して帰宅。午後は予定通り子供を市民プールに連れて行った。小規模なトライアスロンをしているような気分だが、本物のトライアスロンは溺死する自信があるので手を出せない。

 日焼けして肌がひりひりする。いま自分は人生の夏休みなのかもしれない。子供が遊んでくれそうな夏の数を指折り数えるが、そう多くないだろう。来年の1月29日に10万字の原稿を提出する約束をしている。まだ1200字しか書いていない。他にも8月末に7,500字、10月には7,500 words(英文)と10,000字、11月には18,000字の締切がある。この間に、他に原稿を依頼されたら引き受けるだろう(遠慮なく頼んでくれていい)。自分の能力を過信しているし、身の程をわきまえていないからだ。どうするかではなく、どうなるかである。なるようになるし、なるようにしかならん。 

どうせこの世は成り行きまかせ

どうせこの世は成り行きまかせ

 

一度目の3km

 最近、暑すぎて走る気になれない。先週の日曜日には、川崎月例ランに参加したが、5kmのほうも10kmも、酷暑のため3kmに短縮されていた。10kmのほうが5kmに短縮されるのは予想していたが、両方とも3kmとは。というわけで、3km+3kmに出場することにした。それにしても暑すぎる。短縮と聞いてホッとしたのも事実だ。

 熱中症にならないよう、日々ものすごく気を付けている。のどが渇く前にスポーツ飲料を飲むようにしているし、それ以外を飲むときには、水中毒を気にして塩飴をなめている。自転車に乗るときは、15分に1回は必ず水分補給をする。体脂肪率は6.9%だが、お腹はいつもたぷんたぷんだ。

 スポーツ飲料は基本的にまずい。そのなかではポカリが一番飲みやすいと飲みまくっていたら、味に飽きてきた。最近は味が悪いほうが好きで、アミノバリューは高いくせにまずくていい。スポーツ飲料はどれも、飲み続けると気持ち悪くなる。味の改善を切望しているが、コカ・コーラに塩分入れたものを売ってくれたらいいのに。炭酸にして多量に砂糖を入れ、高カロリーを売りにしたスポーツ飲料のニーズは結構あると思うのですが。

 その日も熱中症対策は準備万端で参加していた。気温は36度の炎天下。めちゃくちゃ暑いが、リュックのなかには、アミノバリュー・塩飴・冷しタオル等が入っている。しかし会場に木陰がない。暑さをしのぐ場所がない。「リュックのなかに木陰は入っていない」という微妙に詩人なフレーズを思いついた。歳を取ったらいつか詩集を出して晩節を汚したいと思う。

  3km開始。距離が短いので、自分としては早めのキロ4分30秒ペースで走ることにした。そして、2kmくらいで力尽きかけた。酷暑のなかオーバーペースで走ったからだ。ラスト1kmはヒィヒィいいながら「早く終われ」と念じつつ走りゴールした。タイムは14分くらいだ。たいていのレースで自分は成人男子の「下から3分の1」くらいだ。今回は「上から3分の1」くらい。自分にしてはよいタイムだが、頭がくらくらする。

 熱中症になりかけているのか自問する。たぶん違う。単に暑いなか走ったから、くらくらしているだけだ。リュックからアミノバリューを取り出したが、ぬるくなっている。ただでさえまずいアミノバリューが、さらにまずい。味が、味が悪いのだよアミノバリューは。

 給水所で冷たい水をもらって、首の後ろにかけた。体温が上がっているときは物理的に冷やすのが一番だ。小さな木を見つけて陰に体を丸めて入り座った。少しだけ涼しい。いまの3kmで今日は満足だ。十分ヒィヒィいった。次の3kmにも出るべきなのか考える。もう40歳のいい大人なので、他人様にかける迷惑の点から考える。自分がいま熱中症になって困るのは誰か。

 うん、あんまいないな、と結論付けた。まあ家族は困るだろう。でも仕事はいろいろ一段落した、あるいは諦めた。午後は子供をプールに連れていく予定だから、困るとしたらうちの子たちか。可哀想に。だが大丈夫、そもそも自分は熱中症にならない自信がある。

 これは自信だけでなく実績があるのだ。日々、炎天下のなか30kmくらい自転車を漕いでいるし、5月には33度のなかハーフマラソンも走った。何度か軽度の熱中症になりかけ、その度に「ああ、身体がこうなるのか」「ああ、これが足りなかったのか」と学んできた。いまの体調は、なりかける段階にも入っていない。しかししんどい。というわけで、3kmをゆっくり走ることにした。 (以下、次回「二度目の3km」に続く) 

アミノバリュー4000 500mL×24本

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『東京人』8月号

 今月の『東京人』(8月号)に『多数決を疑う』の書評をいただきました。こういうライフスタイル的な雑誌で扱っていただくのは初めてでハッピーです。どうもありがとうございます。評者は苅部直先生で、砂原庸介さんの『民主主義の条件』と併せての紹介です。

 政治学の高名な先生に、政治学の優れた書籍と併せて拙著を評していただくのは、とても嬉しいです。社会的選択理論は本来、学際的な学問ですが、おそらくはその技術的な「密教性」の高さから、これまで諸分野とうまく連携できていなかった感があります。

 だから『多数決を疑う』を通じて、さまざまな人文社会科学の方々とつながれればと期待していましたし、しています。

東京人 2015年 08 月号 [雑誌]

東京人 2015年 08 月号 [雑誌]

 

 砂原さんとは先日、某省の研究会ではじめてお目にかかりました。私はそんなに社交力の高い人間ではないけれど、外に出かけると会いたい人に会える・面白い話を聞ける確率が高まるので、小まめに出かけています。また、そのような機会を頂くのはご褒美的にうれしいです。

 私にとって『民主主義の条件』は、政党について深い示唆を与えてくれる本です。案外と政治学の本は、政党の存在を所与とするというか、在るのを前提としたり、あるいはその歴史を追ったり、といったものが多いように思います。政党とはそもそも何なのかについて、教えてくれる本を探していました。この本は丁寧にその存在意義と(良し悪し両方の)機能を平易に説明してくれていて、非常に勉強になります。 

民主主義の条件

民主主義の条件

 

 私は多数決をはじめとする集約ルールの研究者です(市場も研究していますが、要するに「計算箱」の研究者なのです。メカニズムデザインといいます)。そして、何が分からないかというと、政党が分からないのです。さっぱり分からない。そもそも政党と投票は、ものすごく相性が悪いはずなのです。コンドルセ陪審定理の大前提条件「各自の判断の独立性」と、党議拘束という「各自の判断の非独立性」が真っ向から対立する。

 かりに党議拘束を法的に禁止しても、小選挙区制のもとだと党執行部の公認権が強力なので、執行部の意向に反する判断をした議員に「次は公認しないぞ」という脅しができる。では中選挙区制がいいかというと、こちらは有権者からの「落選させるぞ」という脅しが効きにくい。

 また、小選挙区制だと一人だけが当選、中選挙区制だと二人以上が当選するのだけど、前者だと明確に優れた集約ルールが設計できるのに対して、後者はそうでもない。具体的にいうと、一人だけを選ぶときにはボルダルールはきわめて優れているけれど、二人以上のときには余計な戦略的操作の問題が発生しうる(キリバス国会で生じた「クローン問題」への懸念)。

 政党を廃止するのは現実的ではないし、利点もあるので、すでに存在する社会的制約として受け止め、そのうえで「制約付き最適解」(constrained optimal)のような投票制度を構築するのが課題なのだと考えています。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

朝日新聞と岩波『科学』

 本日の朝日新聞33面(文化・文明欄)に「多数決、本当に民主的?」という特集が組まれています。私も企画に参加しており、意見を寄せています。よろしければご覧ください。まず、この「多数決、本当に民主的?」という特集名が素晴らしいと思います。多数決と民主主義の区別が明示されている。http://www.asahi.com/articles/DA3S11856784.html

 多数決イコール民主主義のような、奇妙な言説が世にはあります。しかし民主主義は理念であり、多数決は制度です。だから両者は別次元の概念であり、そもそもイコールで結ぶことはできない。そして理念はそれ自体では機能しないので、具体化する制度が必要です。

 ではいったい多数決という制度は、民主主義の理念を適切に具体化する制度なのか。そうでもない・少なからぬ状況で答えはノーだ・けっこうやばい制度だ、ということを示す諸成果が、社会的選択理論には昔からあります。思想でもイデオロギーでもない、数学的な成果です。 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 こうした事柄を扱う拙稿『PRESIDENT』(7/13号)の「なぜ橋下市長は「多数決」を迫ったのか」http://president.jp/articles/-/15564 をリンクしておきます。個人的には、これまで自分が書いた雑誌原稿のなかで一番気に入っています。

 また、今月号の岩波『科学』(7月号)に「多数決主義の欠陥を超えて—民主主義にかなう投票の数理とは」を寄稿しています。『科学』はもっと読まれてほしい、本当によい雑誌です。何を科学者が決めて、何を人々が民主的に決めるのか。例えば原発再稼働は誰が決めるべきなのか。安保法案の合憲性を審査する人は誰が決めるべきなのか。難題ですが、近々きちんとまとめてみたいテーマです。コンドルセが18世紀末に遺した論考がその手掛かりを与えてくれると考えています。18世紀というのは人類史においてはつい最近のことで、「古典」というほどではない。いまだ十分新しいと感じることが多いです。 

科学 2015年 07 月号 [雑誌]

科学 2015年 07 月号 [雑誌]

科学者に委ねてはいけないこと――科学から「生」をとりもどす

科学者に委ねてはいけないこと――科学から「生」をとりもどす

 

昨日のラン写真

 Photolystで昨日のハーフマラソンの写真を二枚購入した(計920円)。勝手に撮った人が、勝手にアップして売る(そして仲介手数料を取る)システム。うまいビジネスだと感心する。

 走ってるオレ。折り返している。泥砂利の路面を見て、僕に同情してほしい。しかし雨のおかげで暑くなかったのも事実なのだ。キャップとシャツとシューズはasicsで、短パンだけNIKE(たしかバーゲンで安かった)。五本指ソックスは、以前はasicsだったけど、やぶけてしまい、今はタビオ。

 「左足の人差し指の先端」にマメができやすいので、あらかじめ絆創膏を貼っている。おかげで今回はそこにマメができなかった。しかしずぶ濡れになった左足裏がソックスと擦れて、土踏まずにマメができた。

 

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 古市場陸上競技場でのゴール直後。放心している。目標の2時間は切れなかった(だいたい2:01:15)。首に巻いているのは小型ウォークマン。音質は悪いが、プールでも使えるし頑丈。右手首のGPS時計はGARMINの初心者用。

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 こうやって写真を見ると、ああ楽しかったなあ、と思う。右膝が早く治らないかな。今日はもう階段が下れるから、たぶんそんなにひどくないとは思う。

 左脚の太腿は、今日は筋肉痛になった。これは多分よいことで、筋肉で衝撃を受け止められているのだと思う。関節で受け止めたらだめなのだ。膝にダメージを受けた右脚に、筋肉痛はない。

 今回は筋トレ・ストレッチはけっこう準備したので、フォームか路面の問題だと思う。フォームの改善は難しいが、筋肉で受け止めることを意識して走る必要があるのだと思う。レッスンに行くかなあ。

 それにしても、やはりケガは気持ちがへこむ。他の人は当たり前にできて、自分にはできないことがある。それは仕方ないことだし、できることだってあるのだし、嘆いてもしょうがない。それでも、もう少し走ることに愛されたいと思ってしまう。大袈裟ですまない。