書いてた途中の記録(その7、最終回)

(これまでのあらすじ) 岩波新書『多数決を疑う』を書いていた坂井は、長年悩まされていた肩や背中や腰などのハリ・コリをどうにかすべく、武田真治『優雅な肉体が最高の復讐である』を参考に筋トレをはじめました(世代的に彼は教祖なのです)。するとあっという間にハリ・コリが無くなりました。そして、あだち充の作品群の影響でランニングもはじめました。これもなかなか楽しいのですが、どうも膝によろしくありません。やがて渡辺航『弱虫ペダル』の影響で、自転車に関心が向かうようになりました。肝心の『多数決を疑う』は最近発売されました。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

 

 自転車に関心を持ったのは弱ペダの影響だけではない。同僚の金子勝さんからいただいた『儲かる農業論』(集英社新書)のあとがきに、楽しそうに自転車のことが書かれていたのもきっかけだ。金子さんは博識で、全く威張った所がない、素敵な人だ。へえ自転車に乗ってるのか、何かいいなと思った。 

儲かる農業論 エネルギー兼業農家のすすめ (集英社新書)

儲かる農業論 エネルギー兼業農家のすすめ (集英社新書)

 

  某日の夕方、某仕事関係で、果てしなく面倒くさい長いメールを書いた。周囲に理不尽に怒っている人(慶應の人ではない)に、「まあまあ」とたしなめる内容だ。げっそりである。幸いそれで状況は静まったが、メールを書くのに90分も使ってしまった。その人は私に、迷惑料とは言わないが、稿料二万円程度を支払ってほしい。

 消耗を回復するため、他の仕事を早めに片づけて、研究室を出て自転車屋に向かった。だがその店には、私が欲しい機種には、色とサイズが合うものがない。入荷には3-4か月かかると言われた。自転車の入荷にそんな時間がかかるのか。がっかりして、電車を乗り継ぎ、別の自転車屋へ向かった。

 陽に灼けた店員がいて、在庫を尋ねたら、ニカッと笑って「一台だけ在庫がありますよ」と言われた。いい笑顔だ。カモを見付けた資本主義の笑顔だと思う。私の心は躍る。その店員と話しているうちに、流されるまま買うことになった。自己決定した覚えはない。だが私は自転車屋に行くと決めた時点で、流されるまま買うことを求めていたのだと思う。

 買ったのはビアンキのクロスバイクで、エントリーモデルの「ROMA4」だ。色は定番のチェレステグリーン。本体が税込みで七万円ちょっとだが、高いのか安いのかよく分からない。ママチャリと比べたら高いが、店内にある何十万もするロードバイクと比べたら安い。そもそも高い安いは、価値に対して判断するものだが、私はこの時点ではその自転車の価値を分からない。本体の他に、前後のライト・スタンド・ヘルメット・仏式空気入れ等が計三万円くらいかかった。

 自転車の本や雑誌ではロードバイクが礼賛されている。クロスバイクの地位は高くない。ママチャリの延長線上のように扱っているものもある。自分が購入するのはクロスバイクのエントリーモデルだ。もし普段乗っているママチャリと大して変わらないのだとしたら、けっこうな無駄遣いだ。試乗すればよいと思われるかもしれないが、購入を決めてから組み立ててもらうものなので、特定機種の特定サイズを試乗することはできない。

 数日後に、組み立ててもらった自転車を受け取りに行った。おお、チェレステグリーンがピカピカに輝いている。最初は高いサドルに違和感があったがすぐに慣れた。

 私はずっと、弱ペダ番外編(SPARE BIKE)での山神、東堂のセリフ「なんて効率的な乗り物なんだ」が気になっていた。経済学者なので資源配分の効率性なら意味が分かるが、乗り物が効率的とは果たしていかに。 

弱虫ペダル SPARE BIKE(1)(少年チャンピオン・コミックス)

弱虫ペダル SPARE BIKE(1)(少年チャンピオン・コミックス)

 

 走ってみると、なるほどこれは効率的な乗り物だと思った。わずかの力でぐいぐい前に進める。そして、すごく楽しい。軽くてスピードが出て、ブレーキがきゅっと効く。急な上がり坂もすいすい登れる。こんな世界があったのか的に楽しい。ママチャリの延長線上では全くない。膝にもやさしいというか、ノーダメージである。

 最初の一か月はマンガで読んだことが本当なのか、自分なりに色々試した。もちろん他の人がもっといい自転車でやると結果は変わりうるので、あくまで私のケースです。

  • 長い上り坂を、ギアを重くしながら登ると、苦しいけど速くなって「オレ、生きてる」と感じるのか? これは、ならなかった。苦しい以前に、ギアを重くすると登れなくなり、自転車が停止して自分は無感情化した。ただし軽いギアなら急な坂もすいすい登れて、羽根が生えた気分になる。
  • 「あるるるる」と叫びながら直線を全開で走ると速くなるのか? これも、ならなかった。酸素がダダ漏れするだけだ。黙って歯を食いしばったほうが絶対に速い。
  • 「そおれええ」や「あああああ」と叫びながら坂を上ると速くなるのか。これも、ならなかった。「あるるるる」と同様に、漫画的表現なのであろう(もちろんそれで構わない)。
  • 歌いながら走ると速くなるのか? これは、なった。不思議である。「あるるるる」だとダメなのに。歌にはブレスが適度なタイミングで入っているからだろうか。いろいろ試したが、清春だと特に速くなることが分かった。四十歳手前になっても自分が学生時代に聴いていた曲ばかり鼻歌するとは思ってなかったが、たぶん一生そうなのであろう。サドルに跨ると「だから べるべぇとの そらのしーたー」と口をついて出る。

 

 自転車通勤を何回かやったが、これはいまいちだった。都心は信号で止まる回数が多すぎるし、幹線道路でトラックの横を走るのは危ない。事故だけは嫌だ。交通ルールを守り、危ない所は歩道をゆっくり走ると、16kmでも1時間10分くらいかかる。脚で走っても1時間40分で行けるから、危険度の高いことをやっている割に、お得感が乏しい。ビルだらけで景色もよくない。

 自宅近辺で乗るのが中心になった。ジムに行くときや、多摩川沿いにランニングに行くときにシャーッと乗るのが、一番気分がいい。単なる移動だったのがエクササイズに変わるし、速いし、何より楽しい。痩せたいわけではないが、日常的に乗っているうちに、11%台だった体脂肪率が9%台に下がった。In Bodyで計測すると、一か月で脚の筋肉が左右に0.4kgずつついた。

 さて「どうせロードバイクが欲しくなりますよ」というロードバイク乗りの予言は当たったかというと、見事に当たった。ロードバイク欲しい。自分も深い前傾姿勢を取りたい。それはもっと楽しいのではないか。ただ、最初からロードを買ってそのように思えたかといえば、それは分からない。自転車は面白いと教えてくれた自分のクロスは良いものだったと考えてもよいだろう。

 ただしロードが欲しいのは事実なので、試しに妻に「あなたとサイクリングに行けたら楽しいと思う。そこで、あなたには僕のクロスを貸すから(あげないけど)、僕が新たにロードを買うというのはどうだろう」と提案したら拒否られた。

 ただし現実問題として、予算もだが、もう一台、自転車を室内保管する場所を見付けるのが難しい。すでに本が廊下に溢れている。あとはまあ、パンク修理はできるようにならなければ。そもそも自分は街乗りばかりで、最大でも一日50kmくらいしか乗らないので、クロスで十分である。だがこれはあくまで理屈の話で、理屈は物欲を抑制するものの、支配するわけではない。

 ROMA4の一か月検診(子供かよ)のため、それを購入した自転車屋に行った。世話になったスマイリーな店員に「ロードもほしくなりますよね」と話したら、彼は「そう仰ってもう一台購入されるお客さん、多いんですよ」と言い、にやりと笑った。

 彼に「悪魔のささやきですね」と返したら、「ふふふ、まずはそのクロスバイクを乗りたおしてからですね」と言われた。そして洗浄と注油の整備セットを勧められるまま買った。次回は三か月検診だ。無料サービスの定期検診というが、私はただのカモで、このまま資本主義の陰謀にはめられたまま、遠くない将来ここでロードを買う気がする。

 

 以上で「書いてた途中の記録」は終わりです。こんな感じで、ばたばた生活しているうちに、岩波新書『多数決を疑う』が4月22日に出版されました。ここで自転車だの筋トレなど下らないこと(いや本当は全然下らなくないですが)書いてないで、この本の紹介でもすればよいように思うのですが、一番言いたいことをまとめて200頁の新書に仕上げたので、それをさらに要約的に説明する気になれない。

 この「書いてる途中の記録シリーズ」は、たぶん全部で二万字くらい書きました。けっこうな労力だ。われながらニーズの見込めない文章を延々と書いたものだと感心しますが、大真面目に『多数決を疑う』を書いているうちに、澱のようなものが自分にたまっており、それを掻き出したかったのだと思います。個人的にはスッキリした。どなたか全部読んでくれた方がいるのか存じませんが、お付き合いいただきどうもありがとうございました。