ツイッターを始めた話

 今さらながらツイッターを始めた。長年わたしはSNSに「食べ物を見せびらかすところ」という負のイメージをもっており、やっていなかった。偏見といえば偏見である。

 しかし最近、一日に三回「ツイッターで宣伝をお願いします」「やってないのです」「あ、そうですか。。チッ」なやり取りをする日があった。舌打ちは実際に舌を鳴らさなくとも、心に冷たい音が聞こえるものだ。三度目の舌打ちを心で聴いたときに、ツイッターしてないことが罪であるような自覚が生まれた。おれは悪いことをしているのだ。

 罪の意識とは、かくも社会状況に依存するのだ。そして有罪状態の心から脱するため、恐る恐るツイッターを始めた。いまは楽しみ方を模索中である。

 わたしは食べ物の写真は載せないだろうが、新しく買ったランシューズの写真は載せそうな気がする。食べ物よりはランシューズのほうが、自慢しても下品ではない気がするのだが、案外とそうでもないのだろうか。

 SNSで承認欲求や自己顕示欲が満たされる、というのは分かる。しかし自分にとってそれら欲求は仕事上の大きな動力なので、SNSで小刻みに満たされては勿体ないとも思う。

 まだ諸機能をどう使えばよいか分かっていない。「リツイート」は表示機能なので分かりやすいが、「いいね」は signal なので発する塩梅が難しい。たぶん「ブロック」は使わない。『多数決を疑う』はネトウヨから二度バッシングを受け炎上したが、その度に本が売れて増刷になったからだ。わたしと相性が悪い人の存在が、わたしに有利でありうる、というのは市場の不思議である。

 明らかにゼミ生と思われる人々の鍵付きアカウント群がある。薄目で中身を覗いてみたいが、少なくとも表面的には良好なリアルの関係を壊したくないので、フォローを申請していない。見る者と見られる者との関係が著しく非対称だということで、安倍公房の『箱男』を思い出した。 

箱男 (新潮文庫)

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多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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