書評への御礼

 今日の毎日新聞・日曜版に岩波新書『多数決を疑う』の書評を(輝かしい位置に)いただきました。これで(時系列順に)日経、読売、朝日、毎日すべての日曜版に書評が出たことになります。ありがたいとしか言いようがない、大変な快挙です。

 「週刊 東洋経済」では1ページ丸ごとの「大書評」をいただきました。それら以外にも新聞や雑誌の諸コーナー・書評ブログ等でも取り上げていただきました。私が詳しく把握していないメディアでの紹介や、これから取り上げてくださるメディアも、いくつかある様子です。

 個別に名前を挙げると、挙げられた方も困るように思うので控えますが、この場で(が適切かは微妙な気はしますが)、評者の皆様に厚く御礼を申し上げます。

 本は読まれないと、どうしようもありません。多くの人に、願わくは深く読んでほしい。市場で流通する商品として、利益を出すのも重要です。だから、シンプルに言って、私はこの本が売れてよかった。

 それと同時に、この本が売れたことを心底からは喜んでいません。もし政治が平時であれば、こんな本はそんなに必要とされないように思うのです。

 去年の冬頃、私と編集者は「発売予定日あたりに統一地方選があるからそれで話題になるといいね」のような話をしていました。とはいえ統一地方選はそんなに盛り上がる選挙ではありません。ところが発売後まさかの「大阪都構想」住民投票が実施され、それを一つの契機として、本がよく売れはじめました。たまに「絶妙な出版タイミングだけど狙ったの?」と聞かれますが、狙ってできるものではありません。たまたまそのタイミングに居合わせた自著が、ひとつの時代精神を反映したのだと思います。

 先の住民投票後の会見で、橋下市長は「叩き潰すと言って叩き潰された」と述べました。しかし、そもそも住民投票は、誰かを叩き潰すための道具なのでしょうか。自ら政策ではなく政争だと認めているようなものです。

 取材を受けるとき「日本に住民投票は必要か」と聞かれると、私は「基本的にはそうだ」と答えています。ただしその実施の権力は、なるだけ住民側に置いてもらいたい。民主制には多様な制度形態がありますが、日本は代表民主制のなかでも「代表委任度」がきわめて高く、有権者が政治に直接関与する機会はほとんどありません。できるのは数年に一回、選挙で代表を選ぶくらいです。

 だから、すでに強い権力を持つ代表側に、その権力を安易に置いてほしくない。「民意を聞くのだからいいじゃないか」という単純な問題ではない。何をどう聞くかのアジェンダ設定は、きわめて作為的になりやすい権力だからです。

 もう一つ。立憲主義や専門知を蔑ろにする現在の政治へ不満を持つ方からも、『多数決を疑う』へ関心を持ってもらっています。Democracy is for all, not for majorityという基本理念があります。しかし all による満場一致の実現が常には見込めない以上、最終的な決定手段として、投票は避けられません(どの状況で、どの投票方式がよいかは、本書で論じています)。だからあまり変なことを投票で決められないよう、あらかじめ「これはやっちゃダメ」と防波堤を立てておくのは当然のことです。サーモスタットや安全弁のようなもの。安全弁が働かないときに何が起こるか、私たちは原発事故でよく知っているはずです。

 「投票事故」は、原発事故に劣らず・あるいはそれに増して、怖いものです。おそらく殺せる人間の数のケタが違う。投票で物事を決めるのは、殺し合いではないから非暴力的だ、ということにはなりません。「皆で誰かを虐殺する案」だって投票で決められるわけだから。投票の非暴力性を担保するのは、何を投票で決めてよいかへの制限です。だからこそヘンな法律が国会でできないよう、憲法で縛りをかけるのが大切なわけです。仮にその法律が「ヘンでない」のでも、立憲主義的抑制を無視して成立させてよいことにはならない。

 先月、さる憲法の大家から、励ましの言葉を寄せた直筆の葉書をもらいました。これは嬉しかった。私の研究室を来訪する人には、少しだけ(私信なので)お見せして、自慢しています。皆さん「おおー」と驚いてくれる。

 理念としての民主主義と、制度としての多数決のあいだには、かなり大きな隔たりがあります。その制度ギャップを、社会的選択理論やメカニズムデザインの知見で、補正する道筋を示したいと考えています。 

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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メカニズムデザイン―資源配分制度の設計とインセンティブ

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