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そろそろ多数決の危険性を直視しよう

 自分のことは自分で決めたい。この意志を「自分たち」に適用したとき、それは自分たちのことは自分たちで決めたいという、デモクラシーを求める心理の基盤となる。だが自分だけで決めることと、自分たちで決めることには、大きな違いがある。一と多の違いだ。

 多数の異なる意見から、一つの決定を導かねばならない。満場一致は理想的だが、それを実現するのは容易でない。延々と話し合いをしても決着は付かない、全員が納得する結論にはなかなか至らない。ではどうするか。

 だから多数決をするのだ、と簡単に話を切り上げてはいけない。多を一に結び付ける方式、集約ルールは、多数決だけではないからだ。むしろ多数決はさまざまな集約ルールのなかでは、かなり出来が悪い。

 有名な例を挙げよう。2000年のアメリカ大統領選挙では、共和党のブッシュと民主党のゴアが、二大政党の擁立する主要候補だった。事前の世論調査ではゴアが有利だったが、途中で「第三の候補」ネーダーが参戦する。最終的にネーダーはゴアの票を喰い、ブッシュが「漁夫の利」で大統領の座を射止めた。歴史に「もし」を考えるのは重要だ。もしネーダーが立候補しなかったら、おそらくゴアが勝っており、ブッシュが推し進めたイラク戦争はなされず、それゆえ「イスラム国」は存在していないだろう。

 多数決は「票の割れ」に致命的なまでに弱い。

 さて、今回の大阪市の住民投票のように「賛成、反対」の二択なら票は割れようがない。だから多数決でよい、と安易に結論付けるのは禁物だ。為政者が提案した案は、ひとつの案に過ぎないからだ。潜在的には他の案もあるはずだ。イエス・ノーの二択になっている時点で、実は選択の機会はひどく狭まっている。

 大阪市解体の住民投票で否決を受けた橋下市長は、さっそく別案、市を残したままの「総合区構想」を模索しているという。これは昨日今日に思い付いたものではないはずだ。

 本当に「民意」に関心があるのなら、(1)現状維持、(2)総合区構想、(3)大阪市解体、への順序付けを有権者に聞けばよい。公式の投票でなく、世論調査でもいい。だが「どれを一番支持するか」の多数決で聞いても仕方ない。票が割れるからだ。ではどうするか。

 きわめて有力なのがボルダルール、「1位に3点、2位に2点、3位に1点」の配点を、選択肢に加点していくやり方だ。この方法は多数決のような単記式でないから、票の割れ問題が生じない。なぜこの配点でなければならないか? 票の割れに強いことを数学的に定式化すると、それを満たす配点の与え方はこの配点、つまりボルダルールの配点しかないからだ*1。だがこれはボルダルールの魅力の一つに過ぎない。

 そこで話を肝心なところに戻そう。満場一致の選択肢がないなら、「満場一致に一番近い選択肢」を選ぶのがセカンドベストということになる。それを選ぶのがボルダルールだ*2

 直感的にいうと次のようになる。多数決で勝つ選択肢とは、相対的に一番多くの「一位」を集めたものだ。例えば、すべての有権者が、共通の選択肢を二位に支持しても、彼らがそれぞれ一位と思う選択肢に投票するなら、その「全員から二位とされた選択肢」が得るのはゼロ票になる。だから多数決の選挙だと、極端なことを言って、特定層から強い支持を受けたほうが有利である。一方ボルダルールだと、そんなことをするのは不利だ。多くの人から少しづつ加点を積み重ねないと勝利しにくい。だからそのような政策、つまり広範の人々から支持を受ける政策を探し当てるインセンティブが政治家に働く*3。Democracy is for all, not for majority なのだ。

 どうして社会的分断を煽る声が選挙のたびに聞こえるのかというと、それは少なからず、多数決という「ゲームのルール」が引き起こしているのである。政治家だって落ちたら「ただの人」だから生活がかかっている。だから選挙のたびに誰かへのバッシングが起こるし、人によっては、そんな人生ギャンブルなクソゲーで勝ったら、民意な僕が粛々と好き放題に職責を果たしたくなるだろう。

 公務員バッシングや生活保護バッシングも不当かつ苛烈だったが、最近だと選挙で影響力を持ちすぎだとして高齢者バッシングまである。「余命別選挙」を導入して高齢者の影響力を低下すべしと軽く言う者もいるが、それは近代において人類が血塗れになりながら打ち立てた建前・理念・制度である「政治的平等」の原則を、いともたやすく放り棄ててしまうものだ。大学バッシングも地方自治体の首長選挙だと起こるが、私はこれを横浜市立大学に勤務していたとき中田宏市長(当時)から嫌というほど味わった。

 だが彼らをバッシングして、さらなる社会的分断を生み出してもしょうがない。バッシングすべきは、そのような社会的分断を生む言葉遣いそのもの、そしてそれを生み出しやすい制度的背景としての多数決であろう。「自分たち」で決める政治的局面で、そもそもの「自分たち」が崩されていくようでは、もはや本末転倒というより破壊行為である。

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)

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社会的選択理論への招待 : 投票と多数決の科学

社会的選択理論への招待 : 投票と多数決の科学

 

*1:この定理を最初に述べたのは[Fishburn, P. C. and Gehrlein, W. V. (1976) "Borda’s Rule, Positional Voting, and Condorcet’s Simple Majority Principle", Public Choice, Vol. 28, pp. 79-88]だが、肝心の証明を与えていない。より一般化した形での証明を、拙稿Okamoto, N. and Sakai, T. [(2013) "The Borda Rule and the Pairwise-majority-loser Revisited", working paper]のTheorem 1は与えている。PDFダウンロード可能:http://www.geocities.jp/toyotaka_sakai/borda1018.pdf

*2:これは[Coughlin, P. (1979) "A Direct Characterization of Black's First Borda Count" Economics Letters, Vol. 4-2, pp. 131-133]の特徴付け定理による。本エントリーで引用した論文の定理はいずれも、拙著『社会的選択理論への招待』(日本評論社)で簡潔な数学的証明を与えまとめている。

*3:この点は[Emerson, P. (2007) Designing an All-Inclusive Democracy, Springer]が強調している。