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ルソーの扱いについての後記

ラン 政治経済メモ

 最近ずっとランニングだの自転車だのばかり書いてたので、今回から「研究室」っぽく戻します。

 でもその前に。先日の月例10km大会は55分で、膝に「全く」ダメージなしで走れた。私にとっては達成だ。昨年9月から始めて、ケガをして回復して、トレーニングして、やっとここまで来れた。感激した。自転車が良かったように思う。いつもなら膝にくるダメージを、自転車でついた腿の前面の筋肉で受け止めている感覚があった。アブゥ。これでようやく、ケガをしないで走れる体になったのだろうか(コツが掴めた気はする)。であれば、これからは距離を伸ばしたい。

 さて『多数決を疑う』では多数決の諸問題を指摘し、それへの代替案を色々書いた。具体的には、ボルダルールと中位ルールがきわめて優れた――あるいは難点が比較的少ない――代替案だと論じている(単峰性が成り立つときには中位ルールで、それ以外のときはボルダルール)。

 それと、本書の特徴は、ルソーを正面から取り上げたことだと思う。これは「今さらルソー」なのだろうか。民主主義でルソーって、直球というか、ベタすぎるだろうか。私が政治思想の専門家なら、こういう「ルソー後を踏まえていない」議論は怖くて出来なかったのではないか、と思わなくもない。でも私はいまの社会を見て、自分がまだ近代以前にいるように感じることも多い。人類史のなかでルソーって、まだけっこう新しいぜ、と思うのだ。

 控えめに言っても、ここ200年ほどルソーは熱心に研究され、敬意を払われつつ、さまざまな批判的検討がなされてきた。私はそのような批判的検討を気にかけながらも、本書では直接的にはほとんど触れていない(ただし批判への応答になる文章をいくつか入れたつもりではいる)。以下、その理由を備忘的に、また関心のある人向けに、記しておく。 

  • まず新書という性質上、細々した議論は好ましくない。そもそも本書は投票の本で、ルソーの本ではない。ルソーにばかり紙数を使うと、確実に全体のバランスが悪くなる。そもそもの話として、「ルソーの投票理論」(とでも呼ぶべきもの)は、1985年以降にYoungやGrofman and FeldらのAmerican Political Science Review誌の論文などで発見されたものである。そして大方の「ルソー批判」は1985年以前になされたもので、ルソーの投票理論には関係していない。

 

  • 「ルソー的な言説」があまりに日本社会で力を失っているように思える。公共性とか公共圏とか、「何それ」な人が圧倒的に多いのではないか。経済学だと公共財は出てくるが、それはあくまで財の利用的性質に関するものであって、公共とは何かという問いは立てられもしない。政策立案の場でも、そのようになってはいないか。

 

  • ルソーはまあ、極端だ。だが規範理論だから、範型を与えるという性質上、特質を際立って浮かび上がらせるのは当然だ。経済学で「完全競争」を扱うのと同じである。「不完全競争」の理解には、完全競争の理解が前提である。そもそもルソーへの批判的検討が理解できるほど、ルソーが理解されているとは思えない。そして完全競争よりルソーは難しいし、私も「理解した」と言い切れるほどの勇気はない。

 

  • ルソー以外に、多数決を深く・包括的に考えた人を、他に見付けられなかった。たぶんいない。異なる人間が共存していこうとする。合議しても満場一致にたどり着けるとは限らない(それが通常である)。そのとき、多数決の少数派が多数派に従う「べき」なのはなぜか。その正当性の根拠は何か。従わないと罰されるからというのは服従であり、義務を遂行すべき理由の説明にはなっていない。

 

  • フェアプレイ的な説明「今日は僕が勝ったが、明日は君が勝つかもしれない。そのときは僕が従うから、今日は君が従ってくれ」には承服しがたい。少数民族や性的マイノリティは明日も明後日も少数派だろうからだ。そもそも明日を迎える前に今日、虐殺されたり抑圧されたりするのは、正しいことか。「何を・誰が・どのような・多数決で決めてよいのか」包括的に考える必要がある。一般利益を・人民が・熟議的理性を働かせたうえでの・多数決ならばよい、が私のルソー読解だ。

 

  • こういうクソ真面目なことを言い続けるのも学者の役割ではなかろうか。でないと「多数決だから民主的」なる言説がまかり通ってしまう。多数決主義(マジョリタリアニズム)は民主主義ではない。一般利益だの理性だのいうと「インセンティブはどうなるのだ」みたいに簡単に嗤う人がいるように思うが、インセンティブ・メカニズムで出来ることってごく限られている。インセンティブは大事だが、メカニズムデザイン理論に山積する不可能性定理の群れを舐めてはいけない。数学的に「できない」がたくさん証明されているのだ(『多数決を疑う』ではそれについて「できる」と併せいくつか記述がある)。
メカニズムデザイン―資源配分制度の設計とインセンティブ

メカニズムデザイン―資源配分制度の設計とインセンティブ

 

 後期ロールズだと、複数の「正義」(のようなもの)が併存するとして、人々は「重複する合意」で共存しようとなるわけだが、そこでもやはり最終的には多数決が用いられる。だがそこで、なぜ少数派が多数派に従う「べき」なのかは説明されない。

 その正当性を説明するためには、最終的には、やはり「人間がともに必要なものを志向する意志」のようなもの、一般意志的なものが必要なのではないか。そのように考えると、どうせなら一般意志を正面から扱ったほうがよい。むろんこの概念は全くもって一筋縄でなく、「こう」と説明できるものでは決してないのだが。

 以下は、これからまとめること。おそらく多数決で決めてよいことは、ごくわずかしかない。これを真面目に考えると、政府の機能の最小化を求めるリバタリアンが正しいとなるだろう。ただしそのような政府のもとでは、功利というか社会厚生が相当低くなるように思う。「厚生と権利の狭間」でいうと、権利が強く優先して、厚生が著しく低くなるケースだ。そこで多数決というか政治で決める領域を増やすとして、どうにか複数の意思を一つに集約せねばならないとしたら、どうするか。

 もし人々が「メタ合意」(by Christian List)を取れるなら、そのとき単峰性が成り立ち、そこで中位選択肢(=コンドルセ勝者)を選べばよい、と私は考える。中位選択肢が功利主義的最適解になるという定理があるからだ。こうしたことを、これから整理して、11月に開催予定の規範経済学シンポジウム(於 一橋講堂)で話そうと思う。準備が間に合えば、5月の日本経済学会の招待講演(於 新潟大学)でも少し触れる。 

厚生と権利の狭間 (シリーズ「自伝」my life my world)

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